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ははは、なるほど、もっともな质问だ。
日本の文字が出来たのは平安时代、10世纪顷です。
(出来たのはもっと古いが普及がその顷と思って下さい)
戦国时代は、镰仓时代、室町时代の后、16世纪ですよ。
戦国时代にはとっくに、通信は全て「汉字カナ混じり」です。
但し、仮名の种类は今より多いし、现代のように片仮名と平仮名の使い分けは确立していません。
(参考)
http://www.google.co.jp/m/search?site=images&source=mog&hl=ja&gl=jp&q=古文书%20戦国时代
补充)
男性もかなを使っていましたよ。
「律令」など、行政文书は汉文ですが、日记など日常の记录は平安时代でも既に现代とほとんど同じかな混じり文です。
「土佐日记」を书いた纪贯之も男性です。
また、日本は古来文学の国であり、奈良时代やたぶんそれ以前から天皇も无名の人も皆「和歌」(わか=短歌たんか)を咏(よ)みます。
和歌は、奈良时代には「万叶仮名」で书かれましたが、平安时代には平仮名ですね。天皇も皇后も贵族も僧侣も武士も、みーんなみんなが「汉字かな混じり」で和歌を咏んでいますよ。
ちなみに、日本人は平安时代~明治时代までずっと、教养ある人は汉文が出来ましたが、読み书きしかできません。会话は出来ないのです。
非常に教养のある人でも「文语」である四书五経や唐诗を勉强しただけなので、
たとえ定型的な行政文书や汉诗は汉文で书けても、
手纸のような简単な内容でさえ、自由な文章を汉文で书くのは
かなり难しいでしょう。
日本の戦国时代、中国の五峰王直は葡萄牙人を种子岛につれて来て、
萨摩藩の役人(武士)と汉文で会话して鉄炮を日本に伝えたそうです。
また、江戸时代の探検家间宫林蔵は间宫海峡を渡って中国东北部の奥地に行き、
清朝の役人と汉文で意思疎通をしています。
どちらの事例も、お互いに汉文の「文语」の素养があったのでこのような事が可能だったのでしょう。
夏目漱石や森鴎外はヨーロッパ语の専门家ですが、汉诗も上手だったようです。
东アジアでの100年程前までの中国の「文语」は、ヨーロッパにおけるlatinと同じ位置づけですね。
日本の文字が出来たのは平安时代、10世纪顷です。
(出来たのはもっと古いが普及がその顷と思って下さい)
戦国时代は、镰仓时代、室町时代の后、16世纪ですよ。
戦国时代にはとっくに、通信は全て「汉字カナ混じり」です。
但し、仮名の种类は今より多いし、现代のように片仮名と平仮名の使い分けは确立していません。
(参考)
http://www.google.co.jp/m/search?site=images&source=mog&hl=ja&gl=jp&q=古文书%20戦国时代
补充)
男性もかなを使っていましたよ。
「律令」など、行政文书は汉文ですが、日记など日常の记录は平安时代でも既に现代とほとんど同じかな混じり文です。
「土佐日记」を书いた纪贯之も男性です。
また、日本は古来文学の国であり、奈良时代やたぶんそれ以前から天皇も无名の人も皆「和歌」(わか=短歌たんか)を咏(よ)みます。
和歌は、奈良时代には「万叶仮名」で书かれましたが、平安时代には平仮名ですね。天皇も皇后も贵族も僧侣も武士も、みーんなみんなが「汉字かな混じり」で和歌を咏んでいますよ。
ちなみに、日本人は平安时代~明治时代までずっと、教养ある人は汉文が出来ましたが、読み书きしかできません。会话は出来ないのです。
非常に教养のある人でも「文语」である四书五経や唐诗を勉强しただけなので、
たとえ定型的な行政文书や汉诗は汉文で书けても、
手纸のような简単な内容でさえ、自由な文章を汉文で书くのは
かなり难しいでしょう。
日本の戦国时代、中国の五峰王直は葡萄牙人を种子岛につれて来て、
萨摩藩の役人(武士)と汉文で会话して鉄炮を日本に伝えたそうです。
また、江戸时代の探検家间宫林蔵は间宫海峡を渡って中国东北部の奥地に行き、
清朝の役人と汉文で意思疎通をしています。
どちらの事例も、お互いに汉文の「文语」の素养があったのでこのような事が可能だったのでしょう。
夏目漱石や森鴎外はヨーロッパ语の専门家ですが、汉诗も上手だったようです。
东アジアでの100年程前までの中国の「文语」は、ヨーロッパにおけるlatinと同じ位置づけですね。
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