日语作文 10年后的我
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我怎么写呀,10年后你想干什么? 我可以随便写吗?
-10年后のあなたは何をしていますか?
この问いに対して、私は二つのことを思い描いた。一つは、小学校の教师。もう一つは…。これは后で话すことにしよう。これまで、私は将来について漠然と考えてきたので、今回のエッセイを通して、10年后の自分をもう一度见つめ直すため、そしてこの京都产业大学で学んだ足迹を残すために、これから自分自身と対话をしていこう。
今までの人生は、ある程度予想ができていた。小学校に入り、中学校、高等学校、大学まで有难いことに顺调に进学させてもらった。决して优等生ではなかったが、道理に外れたことはしなかった。友人にも恵まれ、部活动を通して贵重な体験もたくさんできた。
子どもの顷は、将来どういうことをしたいかということが以外にはっきりと决まっていたような気がする。子どもと触れ合う机会の多い私は、子どもたちによく「みんなは何になりたいのかな?」と寻ねる。すると子どもたちの答えは千差万别だ。警察官、料理人、スポーツ选手など绍介するときりがない。けれども、教育実习に言った时、中学生に同様の质问をしてみると、答えられる者はとても少なかった。やはり、年を追うごとに、子どもたちは亲や教师、周りの人间の影响を受けて现実社会を知っていく。そうして、私にはそんな能力がないとか、无理やろ、といった消极的な意见になってしまう。
これは我々大学生も同じではないだろうか。「なぜ大学に入ったのか」という问いに「何となく」と答え、「君はどういったことをやりたいの」と言われ、「わからん」と答える学生たち。このような光景は学内で日常茶饭事に见受けられるであろう。
おそらく、子どもは社会の情势や自分自身の能力などといった背景を无视して、ただ「憧れ」だけで「なりたいもの、やりたいこと」を心の中に创り出すことができるのであろう。単纯かもしれないが、これこそが先の将来を见出せない我々にとって重要なことではないだろうか。
前に述べたが、私が最もなりたいもの(10年后の私の有力候补)は、小学校の教师である。面白いもので、教师なんか绝対になりたくないと思った人间が、教师を目指しているのだから、人间の先なんてものはわからない。なぜそんな私が教师を目指すようになったのか。
入学当初は、単に教员免许を取得できればと安易な気持ちで教职课程を履修した。しかし、授业は苦痛で、兴味も出ず、いつしか昼寝の时间と化していた。
「もうやめよう…。」
だが、そんな私にチャンスがやってきたのは大学二回生の春だった。日本语教师のボランティアをやってみないかとある人に绍介してもらった。当时は部活もバイトもやらず、暇を持て余していたので、すんなりと承诺した。京都市は小・中学校に在籍する日本语指导が必要な外国人児童・生徒に対して、日本语能力の向上と学力保障を図るプログラムがあり、ボランティアで讲师を募集していたのだ。
最初に派遣されたのは、京都市内のある小学校で、受け持ったのは小学校一年生、中国人の男子児童だった。会话はクラスにいる日本人の児童と変わらなかったが、书き能力が乏しかった。だが、日本语の指导、いや、人にものを教えることなんて皆无であった私は四苦八苦した。ましてや、小学校の一年生、面白くないことには全く兴味を示さない。教室からの脱走も度々であった。初回の授业から引き受けたことを少し后悔したが、やるからには、面白く、そしてためになる授业をしてやろうと、毎日のように教材作りに没头した。アニメのキャラクターを使った教材を提示してみたり、折り纸やゲームをしたりして、少しでも日本语の学习が楽しいと感じてもらうために、一生悬命だった。
この顷から、授业に対する姿势も少しずつ変わっていった。面白くない讲义であれば、どうすれば学生(闻き手)が兴味を持ってくれるのだろうか、私ならこういう教材やトピックを提示するのに、と自分自身の「授业観」をイメージできるようになり、次第に授业が実りあるものになっていった。また、现场にお邪魔させてもらい、たくさんの先生方とお话しすることもでき、教育についての问题(难解なものではないが)も考えるようになった。
教师ってやりがいのある素晴らしい职业であり、「私もなりたい」と思うまでになった。それから现在に至るまで、日本语教师以外にもいくつかの小学校で、ボランティアをさせてもらった。その活动を通して、私は教师の中でも、小学校の教师になりたい。小学校は学校教育の初めの段阶であり、そして期间が最も长く、色々な教科を通して子どもたちの人间形成を见守れるからだ。
10年后、私は教师をやっている。これが私の愿いであり、现在の目标でもある。
そしてもう一つは、日本语のボランティアをしていたことに遡る。
「センセイは10年后何してる?」と私が日本语を教えていた子どもに言われたことから始まる。とっさに私は、「たとえ人が悲しんでいる时でもずっと笑っていたいなぁ。」と返答した。「何それ~。」と言われたが、これは嘘伪りのないものである。
「10年后の私」と寻ねられた场合、多くの人は外见的な职业を答える。それはそれで素晴らしいが、私は自分自身の内面的なものに磨きをかけていきたい。ずっと笑っていたいし、周りの人间も一绪に笑っていて欲しい。笑颜いっぱいの人を见て、嫌気がさす人间はあまりいないだろう。むしろ、ハッピーになれる人が多いのではないだろうか。それって、素敌やん。
确かに少し、いや、かなり変わっているかもしれない。でも、いつでも私はこう答える。「わたしの人生のモットーは‘Keep Smiling(^^♪’です!」と。
だから、子どもたちにたくさんの笑颜を振りまくカッコいいセンセイになれたら、最高であろう。欲张りかもしれないな。
前段まで、アツい思いを述べてきたが、もしかしたら教师になったとしても、数年后には违う职业に就いているかも知れない。何やそれと思われるかもしれないが、それも人生だし、决して间违いではないと私は确信している。むしろ自分の信じた道なのだから正解である。
高校时代に恩师がくれたメッセージがあり、深く感铭を受けた。「世の中には不公平なものもたくさんある。しかし、时间だけは皆平等に与えられたものだ。新しい日々がやって来て、そうして去り行く。そのほとんどが、ありきたりの生活で埋め尽くされるかもしれない。それも人生。しかし、どんなに时代が変わったとしても、人间は人间、私は私。それ以外のものには决してなれない。どんなに状况が変わっても、私は私。それ以外のものにはなれない。だからこそ、この自分を大切にして、少しでも人间らしくなれるように、日々を过ごしていって欲しい。」悩んだときはいつもこの言叶を心の中で闻かせる。
-あれから10年
32歳になった。现在、私は京都市内で小学校の教员をしている。念愿だった目标を叶えることができた。実际はその喜びを味わってもいられず、慌しい日々を送っているが・・・。教室には子どもたちのまぶしい笑颜があり、教坛に立つ私は、たくさんの笑颜をふるまっている。もうすぐ运动会。组体操の练习で、子どもたちと汗を流す日々。大学院を卒业し、教师になって7年目。まだまだ日々格闘中である。クラブを见ながら、生徒指导に教材研究などやることは山积みである。だが、自分の选んだ道だし、子どもたちのことを考えるとちっとも辛くはない。学びを教える者は学び続けなければならない。これは私の持论である。
四回生の时に书いたこのエッセイが戻ってくる歳に本当になってしまったのか。时が経つのは早いものだとつくづく感じる。とは言っても10年前の私と再会できるのは何だか楽しみなものである。
最近、あの顷と同じく10年后の私について考えることがある。髪の毛が気に始める42歳の私-。厄年である。あまり良い年にはならない気がするが、悲観的になるのはやめよう。
7年间、教师という仕事をして思うのは、やはり私は10年后も子どもたちと笑いながら、共に教室で学んでいたい。この仕事は楽しいことばかりではなく、むしろ大変なことのほうが多いが、だからこそ、やりがいを感じられるのであろう。そして、その时も「みんなは10年后何になりたいのかな?」と子どもたちに问いかけているだろう。
最后に将来に迷う后辈たちへメッセージを赠りたい。
「やりたい事や进みたい道はあっても、なかなか自分の前にある道がそこへ繋がっていないことばかりではないだろうか。でも、今やれる事をやることで、进むべき道に进むことができるはず。心配する前にまずは动き出そう。いっぱい失败して、いっぱい泣けばエエ。そして笑おう、君たちは京都产业大学という梦と希望に満ち溢れたこのキャンパスで学んでいるのだから-。」
-10年后のあなたは何をしていますか?
この问いに対して、私は二つのことを思い描いた。一つは、小学校の教师。もう一つは…。これは后で话すことにしよう。これまで、私は将来について漠然と考えてきたので、今回のエッセイを通して、10年后の自分をもう一度见つめ直すため、そしてこの京都产业大学で学んだ足迹を残すために、これから自分自身と対话をしていこう。
今までの人生は、ある程度予想ができていた。小学校に入り、中学校、高等学校、大学まで有难いことに顺调に进学させてもらった。决して优等生ではなかったが、道理に外れたことはしなかった。友人にも恵まれ、部活动を通して贵重な体験もたくさんできた。
子どもの顷は、将来どういうことをしたいかということが以外にはっきりと决まっていたような気がする。子どもと触れ合う机会の多い私は、子どもたちによく「みんなは何になりたいのかな?」と寻ねる。すると子どもたちの答えは千差万别だ。警察官、料理人、スポーツ选手など绍介するときりがない。けれども、教育実习に言った时、中学生に同様の质问をしてみると、答えられる者はとても少なかった。やはり、年を追うごとに、子どもたちは亲や教师、周りの人间の影响を受けて现実社会を知っていく。そうして、私にはそんな能力がないとか、无理やろ、といった消极的な意见になってしまう。
これは我々大学生も同じではないだろうか。「なぜ大学に入ったのか」という问いに「何となく」と答え、「君はどういったことをやりたいの」と言われ、「わからん」と答える学生たち。このような光景は学内で日常茶饭事に见受けられるであろう。
おそらく、子どもは社会の情势や自分自身の能力などといった背景を无视して、ただ「憧れ」だけで「なりたいもの、やりたいこと」を心の中に创り出すことができるのであろう。単纯かもしれないが、これこそが先の将来を见出せない我々にとって重要なことではないだろうか。
前に述べたが、私が最もなりたいもの(10年后の私の有力候补)は、小学校の教师である。面白いもので、教师なんか绝対になりたくないと思った人间が、教师を目指しているのだから、人间の先なんてものはわからない。なぜそんな私が教师を目指すようになったのか。
入学当初は、単に教员免许を取得できればと安易な気持ちで教职课程を履修した。しかし、授业は苦痛で、兴味も出ず、いつしか昼寝の时间と化していた。
「もうやめよう…。」
だが、そんな私にチャンスがやってきたのは大学二回生の春だった。日本语教师のボランティアをやってみないかとある人に绍介してもらった。当时は部活もバイトもやらず、暇を持て余していたので、すんなりと承诺した。京都市は小・中学校に在籍する日本语指导が必要な外国人児童・生徒に対して、日本语能力の向上と学力保障を図るプログラムがあり、ボランティアで讲师を募集していたのだ。
最初に派遣されたのは、京都市内のある小学校で、受け持ったのは小学校一年生、中国人の男子児童だった。会话はクラスにいる日本人の児童と変わらなかったが、书き能力が乏しかった。だが、日本语の指导、いや、人にものを教えることなんて皆无であった私は四苦八苦した。ましてや、小学校の一年生、面白くないことには全く兴味を示さない。教室からの脱走も度々であった。初回の授业から引き受けたことを少し后悔したが、やるからには、面白く、そしてためになる授业をしてやろうと、毎日のように教材作りに没头した。アニメのキャラクターを使った教材を提示してみたり、折り纸やゲームをしたりして、少しでも日本语の学习が楽しいと感じてもらうために、一生悬命だった。
この顷から、授业に対する姿势も少しずつ変わっていった。面白くない讲义であれば、どうすれば学生(闻き手)が兴味を持ってくれるのだろうか、私ならこういう教材やトピックを提示するのに、と自分自身の「授业観」をイメージできるようになり、次第に授业が実りあるものになっていった。また、现场にお邪魔させてもらい、たくさんの先生方とお话しすることもでき、教育についての问题(难解なものではないが)も考えるようになった。
教师ってやりがいのある素晴らしい职业であり、「私もなりたい」と思うまでになった。それから现在に至るまで、日本语教师以外にもいくつかの小学校で、ボランティアをさせてもらった。その活动を通して、私は教师の中でも、小学校の教师になりたい。小学校は学校教育の初めの段阶であり、そして期间が最も长く、色々な教科を通して子どもたちの人间形成を见守れるからだ。
10年后、私は教师をやっている。これが私の愿いであり、现在の目标でもある。
そしてもう一つは、日本语のボランティアをしていたことに遡る。
「センセイは10年后何してる?」と私が日本语を教えていた子どもに言われたことから始まる。とっさに私は、「たとえ人が悲しんでいる时でもずっと笑っていたいなぁ。」と返答した。「何それ~。」と言われたが、これは嘘伪りのないものである。
「10年后の私」と寻ねられた场合、多くの人は外见的な职业を答える。それはそれで素晴らしいが、私は自分自身の内面的なものに磨きをかけていきたい。ずっと笑っていたいし、周りの人间も一绪に笑っていて欲しい。笑颜いっぱいの人を见て、嫌気がさす人间はあまりいないだろう。むしろ、ハッピーになれる人が多いのではないだろうか。それって、素敌やん。
确かに少し、いや、かなり変わっているかもしれない。でも、いつでも私はこう答える。「わたしの人生のモットーは‘Keep Smiling(^^♪’です!」と。
だから、子どもたちにたくさんの笑颜を振りまくカッコいいセンセイになれたら、最高であろう。欲张りかもしれないな。
前段まで、アツい思いを述べてきたが、もしかしたら教师になったとしても、数年后には违う职业に就いているかも知れない。何やそれと思われるかもしれないが、それも人生だし、决して间违いではないと私は确信している。むしろ自分の信じた道なのだから正解である。
高校时代に恩师がくれたメッセージがあり、深く感铭を受けた。「世の中には不公平なものもたくさんある。しかし、时间だけは皆平等に与えられたものだ。新しい日々がやって来て、そうして去り行く。そのほとんどが、ありきたりの生活で埋め尽くされるかもしれない。それも人生。しかし、どんなに时代が変わったとしても、人间は人间、私は私。それ以外のものには决してなれない。どんなに状况が変わっても、私は私。それ以外のものにはなれない。だからこそ、この自分を大切にして、少しでも人间らしくなれるように、日々を过ごしていって欲しい。」悩んだときはいつもこの言叶を心の中で闻かせる。
-あれから10年
32歳になった。现在、私は京都市内で小学校の教员をしている。念愿だった目标を叶えることができた。実际はその喜びを味わってもいられず、慌しい日々を送っているが・・・。教室には子どもたちのまぶしい笑颜があり、教坛に立つ私は、たくさんの笑颜をふるまっている。もうすぐ运动会。组体操の练习で、子どもたちと汗を流す日々。大学院を卒业し、教师になって7年目。まだまだ日々格闘中である。クラブを见ながら、生徒指导に教材研究などやることは山积みである。だが、自分の选んだ道だし、子どもたちのことを考えるとちっとも辛くはない。学びを教える者は学び続けなければならない。これは私の持论である。
四回生の时に书いたこのエッセイが戻ってくる歳に本当になってしまったのか。时が経つのは早いものだとつくづく感じる。とは言っても10年前の私と再会できるのは何だか楽しみなものである。
最近、あの顷と同じく10年后の私について考えることがある。髪の毛が気に始める42歳の私-。厄年である。あまり良い年にはならない気がするが、悲観的になるのはやめよう。
7年间、教师という仕事をして思うのは、やはり私は10年后も子どもたちと笑いながら、共に教室で学んでいたい。この仕事は楽しいことばかりではなく、むしろ大変なことのほうが多いが、だからこそ、やりがいを感じられるのであろう。そして、その时も「みんなは10年后何になりたいのかな?」と子どもたちに问いかけているだろう。
最后に将来に迷う后辈たちへメッセージを赠りたい。
「やりたい事や进みたい道はあっても、なかなか自分の前にある道がそこへ繋がっていないことばかりではないだろうか。でも、今やれる事をやることで、进むべき道に进むことができるはず。心配する前にまずは动き出そう。いっぱい失败して、いっぱい泣けばエエ。そして笑おう、君たちは京都产业大学という梦と希望に満ち溢れたこのキャンパスで学んでいるのだから-。」
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