日语作文范文我的老师
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私の先生
私は十三歳の时に、中国の尾道(おのみち)と云う町でそこの市立女学校にはいった。受持ちの教师が森要人と云うかなりな年配の人で、私たちには国语を教えてくれた。その顷、四十七、八歳位にはなっていられた方であったが、小さい私たちには大変おじいさんに见えて、安心してものを云うことが出来た。作文の时间になると、手纸や见舞文は书かせないで、何でも、自由なものを书けと云って、森先生は日向(ひなた)ぼっこをして呆(ぼ)んやり眼をつぶっていた。作文の时间がたびかさなって、生徒の书いたものがたまってゆくと、作文の时间の始めにかならず生徒の作品を一、二编ずつ読んでは、その一、二编について批评を加えるのが例になった。その読まれる作品は、たいてい私のものと、川添と云う少女のもので、私の作品が、たいていは家庭のことを书いているのに反して、川添と云う少女のは、森の枭(ふくろう)とか幻想の虹(にじ)とかいったハイカラなもので、私はその少女の作品から、「神秘的」なと云う愕(おどろ)くべき上品な言叶を知った。
十三歳の少女にとって、「神秘的」と云う言叶はなかなかの愕きであって、私はその川添と云う少女を随分尊敬したものだ。――森先生は、国语作文のほかに、珠算を时々教えていられたのだが尾道と云う町が商业都市なので、课外にこの珠算はどうしてもしなければならなかった。私の组で珠算のきらいなのは、私と川添と云う少女と、森先生とであったので、たいていは级长が问题を出して皆にやらしていた。
森要人先生は、その女学校でもたいした重要なひとでもないらしく、朝礼の时间でも、庭の隅(すみ)に呆んやり立っていられた。课外に、森先生に汉文をならうのは私一人であったが、ちっとも面倒がらないで、理科室や裁缝室で一时间位ずつ教えを受けた。头の秃(は)げあがったひとで、组でもおぼろ月夜とあだ名していたが、大変无口で私たちを叱(しか)ったことがなかった。
秋になって性行调査と云うのが全校にあって、毎日一人か二人ずつ受持ちの教师に呼ばれて色々なことをたずねられるのであったが、私たちはまだ一年生で恋人もなければ同性爱もなく、别にとりたてて调べることもないのであったが一人ずつ呼ばれた。私も何人めかに呼ばれて、森先生は呆んやりした何时(いつ)もの日向ぼっこのしせいで「どんな本を読んでいるか」とたずねた。私は『复活』と『书生かたぎ』と云うのを読んでいると云ったら、すこし早すぎるとそれだけであった。
森先生は、私たちが二年になると千叶の木更津(きさらづ)中学へ転任してゆかれた。めだたないひとだったので谁も悲しまなかった。先生の家族を停车场へおくって行ったのは生徒で私ひとりであった。私はそれからも、その先生の恩に报いるため、母にねだっては时々名物の饴玉(あめだま)を少しばかり送った。(坊ちゃんが二、三人あったように记忆していたので)暂(しばら)くして、私たちの国语の教师には早大出の大井三郎と云うひとがきまった。まだ二十四、五のひとで、生徒たちにたちまち人気が涌き、国语や作文の时间が活気だってきた。夜なんかも、この先生の下宿先きには上级生たちがいっぱい群れていた。私はこの先生に文章倶楽部(くらぶ)と云うのを毎月借りていた。大井先生はまた私に色々な本を贷してくれた。広津和郎(ひろつかずお)の『死児を抱いて』と云う小さい本なぞ私は愕きをもって読んだものであった。
ある日、昼の休みに讲堂の裏で铃木三重吉(すずきみえきち)の『瓦』と云う本を読んでいた。校长がぶらりとやって来て、此様な社会の暗黒面を知るような本を読んではいけないと云った。私は大変いい本だと思いますと云うと、そのあくる日の朝礼の时间に、校长がひとくさり、小说の害を说いて降坛すると、その后に若い国语の大井先生が「小说を読むふとどきな生徒がいることは困ったことです」と登坛された。私は首をたれていたが、この若い教师の言叶をそのときほど身に沁(し)みて考えたことはなかった。その『瓦』と云う本は大井先生に借りていたものであった。森先生に伸々(のびのび)とそだてられていた私は、小说を読むことをそんなに害とも思わなかったし、学校で読んで悪いことも、そんなに気にしていなかったので、それからと云うもの、私はこの若い国语教师にうっすらと失望を感じ尊敬を持たなくなった。学校へは一切小说本を持ちこまなくなったかわり、勉强もおろそかになってしまって、三年四年となるにつれて、私はせいせきが段々悪くなって、卒业する时は八十七分の八十六番位で出たと思う。国语も作文も図画も乙ばかりだった。
その时の校长を佐藤正都知と云った。私の家族はその顷尾道の近在を行商してまわっていたので、学校から帰っても谁もいなかったし、家の前のうどんやで、毎晩、私は夕饭を食べるようになっていた。一ヶ月分の金があずけてあって、夕方になると私はそのうどん屋の细长い茶向台で御饭をたべた。ある夕方、私は御饭をたべてこのうどん屋から出かけると、ちょうど遅く学校から帰って来ていた校长に逢った。その翌日、学校から母へ呼び出し状が来たがこの忙がしいのにそれどころではない、面倒なことを云われたら止(や)めてしまえとそのままになった。私は学校中でもいけない部类の生徒になって、しまいには、何かが无くなっても私にかぶせられた。新らしい上草履(うわぞうり)を买ってはいていると、受持ちの図画の市河と云う教师に呼ばれて、その草履は谁それのものではないかと云われた。私は朝、自分でその草履を买ったばかりで名前を书くひまもなかったが、教室へ帰ると、その时ばかりは学校へ火をつけてやりたかった。その草履については、母が、お前の身分としては竹の皮の表でよいと云うのを无理矢理八銭ほどはまらせて、畳表(たたみおもて)の麻裏を买ったもので、あとで、同组の生徒が告げ口したと云うことを闻き、その生徒の前で怒鸣(どな)ったことがあった。私は、仲のいい友达がひとりもなかった。川添と云う少女とは组が别れて、私は英语の多い级にいたのでめったに逢えなかった。
私は一年生の时は百人の组(くらす)で十一番であったが、卒业する折は、満足に卒业出来るかと心配した位で、好きな学课は、地理と英语と国语と歴史と作文と図画であった。どれも乙ばかりで、三、四年の顷好きだった図画も乙ばかりだった。図画の宿题には、讲谈倶楽部か何かの口絵を描いて来る少女が一番いいせいせきで、私のように静物や风景を写生してゆくのには、何时(いつ)も乙か丙をくれた。今考えだしても学校时代は何の愉(たの)しみもなかった。私は、あんまり女学校时代のことを书かないけれども、森先生以外にはなつかしいと思う先生がひとりもない。卒业も出来かねた私を卒业さしてくれたのは大井先生だと云うことを同|组(くらす)のものに闻いたことがあったがこれはうれしかった。卒业写真に、私は黒木绵の纹付(もんつき)を着てうれしそうに写っているが、これは下级生の纹付を借(か)り着(き)して行ったもので母もその当时は、卒业出来るのなら工面(くめん)してでも纹付を造ってやったにと云い云いした。
この学校を卒业して十三、四年になるが森先生は木更津の中学校にいまだにいられるかどうか、私はそれきりお逢いしたことがない、いまでは老齢になっていられることであろう。私はこの先生にだけは逢いたいと思っている。
私は十三歳の时に、中国の尾道(おのみち)と云う町でそこの市立女学校にはいった。受持ちの教师が森要人と云うかなりな年配の人で、私たちには国语を教えてくれた。その顷、四十七、八歳位にはなっていられた方であったが、小さい私たちには大変おじいさんに见えて、安心してものを云うことが出来た。作文の时间になると、手纸や见舞文は书かせないで、何でも、自由なものを书けと云って、森先生は日向(ひなた)ぼっこをして呆(ぼ)んやり眼をつぶっていた。作文の时间がたびかさなって、生徒の书いたものがたまってゆくと、作文の时间の始めにかならず生徒の作品を一、二编ずつ読んでは、その一、二编について批评を加えるのが例になった。その読まれる作品は、たいてい私のものと、川添と云う少女のもので、私の作品が、たいていは家庭のことを书いているのに反して、川添と云う少女のは、森の枭(ふくろう)とか幻想の虹(にじ)とかいったハイカラなもので、私はその少女の作品から、「神秘的」なと云う愕(おどろ)くべき上品な言叶を知った。
十三歳の少女にとって、「神秘的」と云う言叶はなかなかの愕きであって、私はその川添と云う少女を随分尊敬したものだ。――森先生は、国语作文のほかに、珠算を时々教えていられたのだが尾道と云う町が商业都市なので、课外にこの珠算はどうしてもしなければならなかった。私の组で珠算のきらいなのは、私と川添と云う少女と、森先生とであったので、たいていは级长が问题を出して皆にやらしていた。
森要人先生は、その女学校でもたいした重要なひとでもないらしく、朝礼の时间でも、庭の隅(すみ)に呆んやり立っていられた。课外に、森先生に汉文をならうのは私一人であったが、ちっとも面倒がらないで、理科室や裁缝室で一时间位ずつ教えを受けた。头の秃(は)げあがったひとで、组でもおぼろ月夜とあだ名していたが、大変无口で私たちを叱(しか)ったことがなかった。
秋になって性行调査と云うのが全校にあって、毎日一人か二人ずつ受持ちの教师に呼ばれて色々なことをたずねられるのであったが、私たちはまだ一年生で恋人もなければ同性爱もなく、别にとりたてて调べることもないのであったが一人ずつ呼ばれた。私も何人めかに呼ばれて、森先生は呆んやりした何时(いつ)もの日向ぼっこのしせいで「どんな本を読んでいるか」とたずねた。私は『复活』と『书生かたぎ』と云うのを読んでいると云ったら、すこし早すぎるとそれだけであった。
森先生は、私たちが二年になると千叶の木更津(きさらづ)中学へ転任してゆかれた。めだたないひとだったので谁も悲しまなかった。先生の家族を停车场へおくって行ったのは生徒で私ひとりであった。私はそれからも、その先生の恩に报いるため、母にねだっては时々名物の饴玉(あめだま)を少しばかり送った。(坊ちゃんが二、三人あったように记忆していたので)暂(しばら)くして、私たちの国语の教师には早大出の大井三郎と云うひとがきまった。まだ二十四、五のひとで、生徒たちにたちまち人気が涌き、国语や作文の时间が活気だってきた。夜なんかも、この先生の下宿先きには上级生たちがいっぱい群れていた。私はこの先生に文章倶楽部(くらぶ)と云うのを毎月借りていた。大井先生はまた私に色々な本を贷してくれた。広津和郎(ひろつかずお)の『死児を抱いて』と云う小さい本なぞ私は愕きをもって読んだものであった。
ある日、昼の休みに讲堂の裏で铃木三重吉(すずきみえきち)の『瓦』と云う本を読んでいた。校长がぶらりとやって来て、此様な社会の暗黒面を知るような本を読んではいけないと云った。私は大変いい本だと思いますと云うと、そのあくる日の朝礼の时间に、校长がひとくさり、小说の害を说いて降坛すると、その后に若い国语の大井先生が「小说を読むふとどきな生徒がいることは困ったことです」と登坛された。私は首をたれていたが、この若い教师の言叶をそのときほど身に沁(し)みて考えたことはなかった。その『瓦』と云う本は大井先生に借りていたものであった。森先生に伸々(のびのび)とそだてられていた私は、小说を読むことをそんなに害とも思わなかったし、学校で読んで悪いことも、そんなに気にしていなかったので、それからと云うもの、私はこの若い国语教师にうっすらと失望を感じ尊敬を持たなくなった。学校へは一切小说本を持ちこまなくなったかわり、勉强もおろそかになってしまって、三年四年となるにつれて、私はせいせきが段々悪くなって、卒业する时は八十七分の八十六番位で出たと思う。国语も作文も図画も乙ばかりだった。
その时の校长を佐藤正都知と云った。私の家族はその顷尾道の近在を行商してまわっていたので、学校から帰っても谁もいなかったし、家の前のうどんやで、毎晩、私は夕饭を食べるようになっていた。一ヶ月分の金があずけてあって、夕方になると私はそのうどん屋の细长い茶向台で御饭をたべた。ある夕方、私は御饭をたべてこのうどん屋から出かけると、ちょうど遅く学校から帰って来ていた校长に逢った。その翌日、学校から母へ呼び出し状が来たがこの忙がしいのにそれどころではない、面倒なことを云われたら止(や)めてしまえとそのままになった。私は学校中でもいけない部类の生徒になって、しまいには、何かが无くなっても私にかぶせられた。新らしい上草履(うわぞうり)を买ってはいていると、受持ちの図画の市河と云う教师に呼ばれて、その草履は谁それのものではないかと云われた。私は朝、自分でその草履を买ったばかりで名前を书くひまもなかったが、教室へ帰ると、その时ばかりは学校へ火をつけてやりたかった。その草履については、母が、お前の身分としては竹の皮の表でよいと云うのを无理矢理八銭ほどはまらせて、畳表(たたみおもて)の麻裏を买ったもので、あとで、同组の生徒が告げ口したと云うことを闻き、その生徒の前で怒鸣(どな)ったことがあった。私は、仲のいい友达がひとりもなかった。川添と云う少女とは组が别れて、私は英语の多い级にいたのでめったに逢えなかった。
私は一年生の时は百人の组(くらす)で十一番であったが、卒业する折は、満足に卒业出来るかと心配した位で、好きな学课は、地理と英语と国语と歴史と作文と図画であった。どれも乙ばかりで、三、四年の顷好きだった図画も乙ばかりだった。図画の宿题には、讲谈倶楽部か何かの口絵を描いて来る少女が一番いいせいせきで、私のように静物や风景を写生してゆくのには、何时(いつ)も乙か丙をくれた。今考えだしても学校时代は何の愉(たの)しみもなかった。私は、あんまり女学校时代のことを书かないけれども、森先生以外にはなつかしいと思う先生がひとりもない。卒业も出来かねた私を卒业さしてくれたのは大井先生だと云うことを同|组(くらす)のものに闻いたことがあったがこれはうれしかった。卒业写真に、私は黒木绵の纹付(もんつき)を着てうれしそうに写っているが、これは下级生の纹付を借(か)り着(き)して行ったもので母もその当时は、卒业出来るのなら工面(くめん)してでも纹付を造ってやったにと云い云いした。
この学校を卒业して十三、四年になるが森先生は木更津の中学校にいまだにいられるかどうか、私はそれきりお逢いしたことがない、いまでは老齢になっていられることであろう。私はこの先生にだけは逢いたいと思っている。
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