关于日本经济的日语文章

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匿名用户
2011-05-05
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経済発展/経済开発
多くの人にとって、経済発展/経済开発――つまり国の経済的な进歩の分析――こそが、そもそもの経済学の考察対象だ。だって、アダム・スミスはそもそも経済発展の「性质と原因」を见つけようとしてたんでしょ? でも现代の経済学者にとって、开発経済の状况はちょっとばかり居心地の悪いものだ。それはいつも何やら傍系で、どこか后ろのほうにはいつもいるけれど、「本物の経済学」とは思われておらず、社会学、人类学、歴史、政治、そしてあまりにしばしばイデオロギーのごった煮と思われていた。

それでも、これをまるごと无视した大経済学者はほとんどいなかった。すでに触れたアダム・スミスはもとより、おそらく古典派は一人残らず、「経済开発/経済発展」と呼べるものを考察していた。シュムペーターの最初の有名な本は『経済発展の理论』(1911) だった。ドイツ歴史学派――そしてそのイギリスとアメリカのお仲间たち――は十分に开発経済学の一部と见なせる。経済成长理论はすべて、开発経済学を目指しているか、あるいはその根底にあるとさえ言える。

それでも、现在言われているような「経済开発」が本当に始まったのはようやく 1930 年代になってからだ。コリン・クラークの 1939 年の定量研究に刺激されて、経済学者たちはやっと、人类のほとんどは进んだ资本主义的経済システムの中に暮らしているわけじゃない、ということに気がつきはじめた。でも、初期の大きな悬念は相変わらずヨーロッパ、つまり戦后ヨーロッパ复兴と、その东の周縁部の产业化だった。これは先駆的な 1943 年のパウル・ローゼンシュタイン=ロダンとクルト・マンデルバウム (Kurt Mandelbaum) の 1947 年の大著にもよくあらわれている。経済学者たちが本気でその関心をアジアやアフリカ、南米に向け始めたのは、第二次大戦后しばらくたってからのことだった。

このとき重要な要因だったのが、植民地の解放だ。生活水准や制度がヨーロッパとはまるでちがう、新兴国の大群に直面したおかげで、现代开発理论、つまりは成长そのものの分析だけでなく、成长をもたらし、维持して加速できる制度の分析をも含む理论が、本気で开始されたわけだ。初期の开発理论家――たとえばベルト・ホセリッツ、サイモン・クズネッツ、W・アーサー・ルイス、ラ・ミン (Hla Myint) などは、経済开発/発展を别个のテーマとして分析した初の経済学者だった。

戦后に国际连合――そしてその周辺机関、たとえば世界银行、国际通货基金 (I.M.F.)、国际労働机构 (I.L.O.) やその他地域的な组织――ができたことも、别の重要な原动力になった。こうした机関が无数の调査を委托したことで、开発理论の学问的ではない流派が登场した。

成长と资本形成としての开発/発展
初期の経済开発理论は、単なる伝统的経済理论の延长で、「开発/発展」を成长と产业化に同一视していた。结果として南米、アジア、アフリカ诸国はもっぱら「低开発」国、つまりはヨーロッパ诸国の「原始的」なものと见なされて、いずれはヨーロッパや北米の生活水准や制度を「発展」させられるものだ、と见られていた。

结果として、経済开発の议论では、経済発展の「段阶论」的な考え方が圧倒的になった。后にアレクサンダー・ゲルシェンクロン (1953, 1962) のおかげで有名になり、もっと粗雑にはウォルト・W・ロストウ (1960) が広めたような段阶论は、すべての国が同じ経済発展の段阶をたどり、いまの低开発国は単にこの直线的な歴史展开の中での初期段阶にいるだけで、第一世界(ヨーロッパと北米)は后のほうの段阶にいるのだ、としていた。「直线段阶」理论はそれ以前にも ドイツ歴史学派が展开していたものだから、その主な提唱者がガーシェンクロンやロストウのような経済史家が多かったのも纳得がいく。

「低开発」の概念について、もっと経験的な定义を导こうという启蒙的な试みが行われた。たとえばホリス・チェネリー (Hollis Chenery)、サイモン・クズネッツ、イルマ・アデルマン (Irma Adelman) などの试みなどだ。これらによる一般的な结论としては、确かにはっきりした「直线的な段阶」はないにしても、いろんな国は似たような発展段阶のパターンを示すようではあって、ただしある程度のちがいは継続できるし、また実际に継続する、というものだった。この考え方からすると、开発経済学の仕事は、低开発国がいくつかの段阶をすっとばして先进国に「追いつける」ような近道を示すことだ、ということになる。

开発/発展を产出の増大と同じことだとした初期の开発理论家たちは、ラグナー・ヌルクセ (Ragnar Nurkse) (1952) を皮切りに、资本形成が発展加速の不可欠な要素だとした。W・アーサー・ルイス卿 (1954, 1955) の名论文は、开発における贮蓄の役割を强调した。初期のケインズ派、たとえばカルドアやロビンソンは、所得分配の问题が贮蓄と成长の决定要因だと指摘しようとした。现代マルクス派、たとえばモーリス・ドッブ (Maurice Dobb) (1951, 1960) も、贮蓄形成の问题に専念している。

もちろん、贮蓄自体は政府の介入で操作できる――これはルイスが何度も述べたし、ケインズ派も主张していた。それ以前にもローゼンシュタイン=ロダン (1943) は、スケールメリットのおかげで政府主导の工业化は十分に可能だ、と论じていた。低贮蓄と低成长の「悪循环」を、政府介入によって高贮蓄と高成长の「好循环」に変えようという発想は、ハンス・W・シンガーの「バランス成长」ドクトリンの中でも主张されたし、グンナー・ミュルダール の「蓄积要因」理论でも唱えられた。したがって、政府介入――计画経済、社会経済工学、有効需要管理のいずれだろうと――こそが経済开発のツールとして不可欠だとされた。

また、国际贸易こそが成长の大原动力だと考えた経済学者もいた。すでにラ・ミン, ゴットフリート・ハーベルラー (Gottfried Haberler)、ジェイコブ・ヴァイナー (Jacob Viner) がこの路线を强调していた――アダム・スミスによる、贸易と専门特化が「市场の范囲」を拡大できる、という古典ドクトリンと似た议论を展开したわけだ。でも、1930 年代初期になると、 D.H. Robertson がこの主张に対する疑念を唱えた――そしてこれは后に、ラグナー・ヌルクセ、H.W. シンガー、ラウール・プレビシュによって缲り返されることになる。

経済开発の社会的侧面
资本形成が完全に否定されることはなかったけれど、このことばの意味は、时间につれてちょっと変わってきた。T.W. シュルツは、その有名なシカゴ学派の博士论文に基づいて、物理资本の蓄积から、「人的资本」形成の必要性を强调するようになった。これは成长の前提として教育と训练を强调し、第三世界から第一世界への「头脳流出」の问题を同定することになった(そしてもうひとつ、后に主张されるように、民间セクターから政府官僚机构への头脳流出も指摘された)。W. アーサー・ルイスとハンス・W. シンガーはシュルツの理论を拡张して、人的资本の改善による社会开発全体――特に教育、健康、出生率等――が成长の前提なのだ、と主张した。この见方からすると、产业化は、社会开発を犠牲にして行われるものであるなら、绝対に自律的にはならない。

でも、开発理论の成长フェティシズムを本当に打ち破ったのは、やっと 1969 年のダドリー・シアーズ (Dudley Seers) になってからだった。かれの议论だと开発は社会的な现象であり、一人当たり GDP を増やす以上の意味を持っている。シアーズの意见では、贫困や失业、不平等の削减も同时に意味している。シンガー, ミュルダール、アデルマン (Adelman) は、シアーズの苦情の正当性を认めた老兵たちとして最初の人々だったし、多くの若い経済学者、たとえばマフバブ・ウル・ハク (Mahbub ul Haq) も経済开発を再定义しようと言うシアーズの呼びかけに引きつけられた。こうして二重性、人口成长、不平等、都市化、农业転换、教育、健康、失业等々はすべて独立して検讨されるようになり、単に根底にある成长理论の付属物として扱われるのではなくなった。

特笔に値するのは、百姓経済の独自构造に関するチャヤーノフ (Chayanov) の业绩が再评価されるようになったことだった。同じくこの时期に台头してきたのが、成长そのものがどこまで望ましいか、という论争だった。E.F. シューマッハーは、名高い论争的な一般书 Small is Beautiful (1973) で、产业化の望ましさを否定して、手工芸経済の利点を褒めそやした。1980 年代に世界环境危机が明らかになるにつれて、経済発展の维持可能性そのものが问题视されるようになり、この论争も新しい局面を迎えた。开発の望ましさそのものが再検讨を必要としているのは明らかだった。

构造主义とその反対者たち
シアーズの苦言以前から、多くの経済学者たちは初期の开発理论や、その「段阶」理论の背后にある暗黙の想定をずいぶん居心地悪く思うようになっていた。新しい(立场によっては古い)见方が芽吹いてきた――これを大ざっぱに「构造主义」と呼ぼう。「构造主义」理论とは、手短に言って、第三世界の「独自の」构造问题に注目すべきだと述べた。この议论によれば、低开発国は先进国の「原始版」なんかじゃない。むしろ、独特な特徴を持っている。すでに述べたように、チェネリーも似たような议论を述べていたけれど、でも最终的には経験の共通性に注目した。新手の构造论者たちは逆に、ちがいのほうに注目した。発展の国别の分析が必要だと强调したのは、アルバート・O・ハーシュマン (Albert O. Hirschmann) (1958) などだった――そしてこれは、后にダドリー・シアーズも强调する点となる。

こうした独自の特徴の一つは、ヨーロッパの产业化とちがって、第三世界の产业化は、すでに产业化した西侧诸国が隣にあって、そこと贸易と结びついている状态で起こらなければならない。これは発展にとって、独特の构造问题を引き起こしかねない、と少数の人は考えた。

H.W. シンガーとほぼ同时期に、UNCLA エコノミストのラウール・プレビシュ (Raúl Prebisch) が有名な、経済开発の「依存性」理论を编みだした。ここでかれは、世界が国同士で「中心=周縁」関系を形成したのだ、と论じた。第三世界は第一世界の工业のための原材料生产者になるよう无理强いされ、世界経済における依存的な役割におとしめられている、というわけだ。したがってプレビシュの结论によれば、こうした国が自律的な成长路线に入るためには、ある程度の保护主义が必要となる。保护贸易と政府政策による输入代替のほうが、贸易と输出志向よりもプレビシュのお気に召した戦略だった。政府主导の工业化、たとえば明治时代の日本やソヴィエト・ロシアなどの歴史的事例が掲げられて、粗雑な「段阶」论の主张するような、建った一つの発展への道なんてものはないのだ、と主张された。

プレビシュ=シンガー理论は、特にマルクス派の思想家に大いに人気が出た――かれらはローザ・ルクセンブルグや V.I. レーニンの帝国主义论と共鸣する部分をそこに见て取ったからだ。たとえばドッブなど贮蓄にひたすらこだわる正统マルクス派思想家、ポール・バラン、ポール・スウィージー、A.G. フランク、サミール・アミンなどの新マルクス派は、プレビシュ=シンガー理论をルクセンブルグの理论とまぜて、それを现代に引き出した。多くの第三世界政府は、1960 年代と 1970 年代に构造主义者たち and/or 新マルクス派 の言语と政策を采用して、この动きは相当な影响力を持った。「新植民地主义」「中心=周縁」「依存性」なんてのが当时の流行りことばだった。

でも、时间がたつにつれて、こうした政策は约束の果実を実らせなかった。そして新古典派 (というかもっと正确にはネオリベラル的な) 反动が、P.T. バウアー、I.M.D. リトル、ディーパク・ラル、ベラ・バラサ、アン・クルーガー、ハリー・G・ジョンソンといった一匹狼たちの主张が支持者を集めるようになってきて高まった。かれらの主张は単纯だった。政府の介入は开発/発展を改善しないどころか、むしろそれを阻害する。巨大な官僚や国家规制の台头によって、民间投资が押さえつけられて、価格も歪み、発展途上経済はとんでもなく非効率になった。この见方によれば、バランスを欠いた成长、依存性等々はすべて、あまりに政府の経済统制が强すぎるせいであって、弱すぎるせいではない、ということになる。

近年では、新古典理论がさらに支持を増した。これは南米で特に顕著だ。でも证拠はまだはっきりしないし议论も分かれている。构造主义者と反构造主义者たちは、どっちも极东アジアの开発と悲惨なアフリカの体験を指摘して、どっちもそれが自分たちの正反対の理论を裏付けるものだとしている
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