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しかし、朱熹の诗文集にこの作品は见当たらない。そのことはかなり以前から问题になっていたが、平成年代に入ってから、近世以前のいくつかの诗文集に、ほぼ同じ内容の诗が、异なる题...
しかし、朱熹の诗文集にこの作品は见当たらない。そのことはかなり以前から问题になっていたが、平成年代に入ってから、近世以前のいくつかの诗文集に、ほぼ同じ内容の诗が、异なる题と作者名を伴って収録されていることが指摘されるようになった。
まず、柳瀬喜代志によって、近世初期に禅僧の滑稽诗を集めた『滑稽诗文』(『続群书类従』所収)に、「寄小人」という题で、この诗が収録されていることが指摘された[1]。作者名は记されていない。転句が「未觉池塘芳草梦」となっている点が、「偶成」と异なっている。柳瀬の说によると、题の「小人」は「年若い僧」を意味し、起句の「少年」は「寺院にあずけられた俗人の子弟、あるいは幼少にして出家し僧を目指している男児」であると共に、僧侣の性爱の対象である稚児の意をも含んでいる。それ故この诗は、年若い僧に対して「君の稚児さんは老け易いが、君の学业成就は难しい」、だから男色と学问とにその若い时を惜しんで过ごしなさいと勧める诗意を成す滑稽诗だという。
一方、これが朱熹の作品として登场するのは、明治时代の日本の汉文教科书からである[1]。まず、明治34年(1901年)の宫本正贯编『中学汉文読本』(文学社)に「七绝 朱熹」、同年の国语汉文同志会编『中学汉文読本』(六盟馆)には「逸题 朱熹」として収録されている。その後の汉文教科书にも朱熹作として収録されているが、题は「诗」「少年易老」などとなっていることがある。明治38年(1905年)の国语汉文研究会编『新编汉文教科书』(明治书院)に「偶成 朱熹」として掲载され、以後の多くの教科书もそれを踏袭するようになった。この时期は明治政府によって学校教育の拡大施策が行われており、そのために适当な教材を求めていた教科书编纂者がこの诗を朱熹作の勧学诗と见立てて采択したかと、柳瀬は推测している。
次いで、岩山泰三が、元和9年(1623年)成立の『翰林五凤集』(『大日本仏教全书』所収)巻三七に、惟肖得巌作の「进学轩」という题で収録されていることを指摘した[2]。これも転句は「未觉池塘芳草梦」である。『翰林五凤集』は南北朝时代から近世初期に至る五山诗を集成したもので、惟肖(1360~1437)も室町时代前期の著名な五山诗僧である。「~轩」は寮舎(禅寺や塔头の中に建てられた各种の寮を有する公的建造物)を示す。题から韩愈の「进学解」を踏まえた勧学の诗と解釈でき、「寄小人」は、これが後に滑稽诗に改変されたかと、岩山は推测している。
また、花城可裕が、『琉球咏诗』(ハワイ大学・ハミルトン図书馆・宝玲文库所蔵)に、蔡温(具志头文若)の作として収録されていることを指摘した[3]。転句はやはり「未觉池塘芳草梦」で题はない。蔡温(1682~1761)は琉球第一の政治家と称された人物であり、花城は「このような教训的な内容の诗を示して谁もが纳得するのは、明治においては朱熹であり、琉末の琉球では蔡温であった」という。
更に、朝仓和が、観中中谛の『青嶂集』(相国寺刊・梶谷宗忍訳注『観中録・青嶂集』所収)に、「进学斎」という题で収録されていることを指摘した[4]。现在のところ、この作品の最古のテキストである。これは転句が「枕上未醒芳草梦」となっている。「进学斎」とは书斎の名であり、张耒の「进学斎记」(『事文类聚』所収)を踏まえた勧学の诗とみられる。観中(1342~1406)は惟肖の先辈の五山僧であり、惟肖には先辈の作品などをメモした选集も残されているので、この作品もそうしたものが惟肖の作品と混同されて『翰林五凤集』に収録されたのではないかと、朝仓は推测している。 展开
まず、柳瀬喜代志によって、近世初期に禅僧の滑稽诗を集めた『滑稽诗文』(『続群书类従』所収)に、「寄小人」という题で、この诗が収録されていることが指摘された[1]。作者名は记されていない。転句が「未觉池塘芳草梦」となっている点が、「偶成」と异なっている。柳瀬の说によると、题の「小人」は「年若い僧」を意味し、起句の「少年」は「寺院にあずけられた俗人の子弟、あるいは幼少にして出家し僧を目指している男児」であると共に、僧侣の性爱の対象である稚児の意をも含んでいる。それ故この诗は、年若い僧に対して「君の稚児さんは老け易いが、君の学业成就は难しい」、だから男色と学问とにその若い时を惜しんで过ごしなさいと勧める诗意を成す滑稽诗だという。
一方、これが朱熹の作品として登场するのは、明治时代の日本の汉文教科书からである[1]。まず、明治34年(1901年)の宫本正贯编『中学汉文読本』(文学社)に「七绝 朱熹」、同年の国语汉文同志会编『中学汉文読本』(六盟馆)には「逸题 朱熹」として収録されている。その後の汉文教科书にも朱熹作として収録されているが、题は「诗」「少年易老」などとなっていることがある。明治38年(1905年)の国语汉文研究会编『新编汉文教科书』(明治书院)に「偶成 朱熹」として掲载され、以後の多くの教科书もそれを踏袭するようになった。この时期は明治政府によって学校教育の拡大施策が行われており、そのために适当な教材を求めていた教科书编纂者がこの诗を朱熹作の勧学诗と见立てて采択したかと、柳瀬は推测している。
次いで、岩山泰三が、元和9年(1623年)成立の『翰林五凤集』(『大日本仏教全书』所収)巻三七に、惟肖得巌作の「进学轩」という题で収録されていることを指摘した[2]。これも転句は「未觉池塘芳草梦」である。『翰林五凤集』は南北朝时代から近世初期に至る五山诗を集成したもので、惟肖(1360~1437)も室町时代前期の著名な五山诗僧である。「~轩」は寮舎(禅寺や塔头の中に建てられた各种の寮を有する公的建造物)を示す。题から韩愈の「进学解」を踏まえた勧学の诗と解釈でき、「寄小人」は、これが後に滑稽诗に改変されたかと、岩山は推测している。
また、花城可裕が、『琉球咏诗』(ハワイ大学・ハミルトン図书馆・宝玲文库所蔵)に、蔡温(具志头文若)の作として収録されていることを指摘した[3]。転句はやはり「未觉池塘芳草梦」で题はない。蔡温(1682~1761)は琉球第一の政治家と称された人物であり、花城は「このような教训的な内容の诗を示して谁もが纳得するのは、明治においては朱熹であり、琉末の琉球では蔡温であった」という。
更に、朝仓和が、観中中谛の『青嶂集』(相国寺刊・梶谷宗忍訳注『観中録・青嶂集』所収)に、「进学斎」という题で収録されていることを指摘した[4]。现在のところ、この作品の最古のテキストである。これは転句が「枕上未醒芳草梦」となっている。「进学斎」とは书斎の名であり、张耒の「进学斎记」(『事文类聚』所収)を踏まえた勧学の诗とみられる。観中(1342~1406)は惟肖の先辈の五山僧であり、惟肖には先辈の作品などをメモした选集も残されているので、この作品もそうしたものが惟肖の作品と混同されて『翰林五凤集』に収録されたのではないかと、朝仓は推测している。 展开
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