帮忙写篇小论文 150
要求:内容关于"对于日本某个作家,作品的简介以及自己对该作家作品的想法和观点";"日本的某个传统文化习惯,如和中国的某习俗相似,要有一定的对比说明";或者谈论"读日本,日...
要求:内容关于"对于日本某个作家,作品的简介以及自己对该作家作品的想法和观点";"日本的某个传统文化习惯,如和中国的某习俗相似,要有一定的对比说明";或者谈论"读日本,日本人的看法,宏观微观皆可.
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不是纯日语版!是以汉语为主,适当添加日语的引用材料! 展开
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哈哈,楼上这位仁兄给的网址骗人的。
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2007-12-03
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村上春树
『海辺のカフカ』について
村上春树氏待望の长编小说『海辺のカフカ』が刊行されます。作者にこの小说が完成するまでの话を语って顶きました。
――タイトルは、いつどのように决まったのですか。
いつ思いついたのかな。よく覚えてないけど、书き始めてしばらくしてからだったと思いますね。カフカはもちろん仆の好きな作家だし、音の响きも好きだった。「海辺のカフカ」って、なんかイメージを唤起するものがありますよね。何かの拍子にふと思いついて、头の中でしばらくその响きを転がしてみて、「うん、これでいこう」って思いました。そのあとはそれ以外のタイトルって思い浮かばなかったですね。
――书き始めたのはいつ顷ですか。
面白いんだけど、ちょうど野球シーズンの开幕まもなくの顷に书き出して、ヤクルトが优胜を决めたころに第一稿を书き上げたんです。これって『风の歌を聴け』と同じなんです。あのときも开幕日に书き始めて、优胜が决まった顷に书き上げた。広冈监督のもとで初优胜したときです。なんか因縁みたいだけど。
――『ねじまき鸟クロニクル』以来の长い小说ですね。
『ねじまき鸟クロニクル』を书いたあと、とにかく自分の中にあった物语的なものをオールアウトで出し切ったという感じだったんです。四年くらいかけて延々と长い话を书いていたからね。四年はまあ长かったな。そのあいだずっとアメリカに暮らしてましたしね。
へとへとに疲れて、もう何も考えられなくて、そのあといくつか短编小说は书いたけど、长编小说を书こうなんていう気はぜんぜん起きなかった。次に『アンダーグラウンド』に行ったわけですが、『アンダーグラウンド』はノンフィクションというか、要するに闻き书きだから、他人の物语を采集する作业なんですね。どんどん吸い込んでいく作业なんだ。それに対して小说を书くというのは、これまでためこんだものを吐き出す作业です。そういう意味ではまったく逆のことをやっていたわけです。一年间かけてできるだけうしろに引いて自分の気配を杀して、他人の话に耳を倾けて、それを自分の中に积み上げていったんです。
でもね、自分の中にいったん取り込んだものを、物语のかたちにうまく変换して、外に出していけるようになるまでにはやっぱり时间がかかるんです。そんなに都合よくすっと出てくるものじゃない。积み上げるだけ积み上げておいて、あとは鸟が卵をあたためるみたいにしっかりと抱えこんでいなくちゃならない。体験の规模が大きければ大きいほど、意味が深ければ深いほど、その时间は长くなるんです。じっと我慢して待っていなくちゃならない。
『アンダーグラウンド』を书いてしばらくして、どうしても小说を书きたいという気持ちになって、それで『スプートニクの恋人』を书きました。仆はやっぱり小说家だから、ある程度时间がたつと、小说って自然に书きたくなるんです。ダムに水がたまるみたいな感じで。でもその时点ではまだ、『アンダーグラウンド』の作业のあいだに仆がインテイクしたものを、うまくアウトプットするための准备は整っていないなっていうことが、自分でもわかっていた。まだ仆は中间地点にいるんだっていうことが。
だから仆としてはとにかく『スプートニクの恋人』では、次の长编小说のための准备みたいなことをしておこうと考えたわけです。野球でいえば、シャープな単打を狙っていこうと。长距离を狙うんじゃなくって。仆はそのためには、まず文体の整备をしてみたかった。具体的にいえば、これまで仆が使ってきた文体の総ざらえみたいなことを、ここでとことんやっちまおうと。そういう実験的なことをするには、あれくらいの长さの小说って绝好の场所なんですね。仆は「中编小说」って位置づけているんだけど、短编では入れ物として短すぎる、でも本格的な长编まではもっていけない、というあたりの长さ。だからね、あの『スプートニクの恋人』という小说は、物语という以前に、文体のショーケースみたいになっている。文体の问题をどこまでもぐいぐい追求していったら、こういう话になりましたみたいな。
そのあとしばらくして、今度はまとめて短编を书いてみようと思った。それが『神の子どもたちはみな踊る』です。ここでも仆がいちばん意识したのは、文体の问题です。今度は全部三人称で、いろんな文体で、ワンテーマで、それぞれにまったく异なった种类の物语を书いてみることにした。それをひとつにまとめて「コンセプト・アルバム」みたいにしようと。仆はこれまでだいたいにおいて一人称で物语を书いてきたから、三人称の経験ってあまりないんです。でもとにかくやってみようと思った。どうしてそう思ったかっていうと、いろんなボイスが组み合わさった长编小说をこの先书くためには、三人称を有効に使う必要があったからです。もちろん一人称だけでもそういうことはある程度できるんです。そのへんは纯粋にテクニックの问题だから。でもね、もうひとつ小说のスケールを大きくするためには、ボイスの多様化というのはどうしても避けて通れない问题だった。
そういう気持ちになったのは、やはり『アンダーグラウンド』を书いた影响が大きかったと思います。あの仕事のあと、ずいぶん时间がたってからも、いろんな人々のボイスが仆の头の中でずっと响いていて、そういう存在感みたいなのはけっこう强かったんです。とてもリアルだったし、切迫したものだった。仆としてはそういう肌身の感覚を大事にしたかったんです。そういうことも、自分の文体をあるレベルでは作りかえようと考えた契机にはなっているんじゃないかな。
――この小说ではいくつかの话がばらばらに始まって、それぞれに物语が进んで、络み合っていくわけですが、设计図みたいなものは最初からあったのですか?
いや、そういうものは何もないです。ただいくつかの话を同时的に书き始めて、それがそれぞれ胜手に进んでいくだけ。なんにも考えてない。最后がどうなるかとか、いくつかの话がどう结びつくかというのは、自分でもぜんぜんわかりません。物语的に言えば、先のことなんて予测もつかない。ただ、书き始めるときに「森のことは书きたいな」と思っていました。それは『世界の终りとハードボイルド・ワンダーランド』のイメージの続きとしてね。だから先になって森の中の世界が出てくるということはだいたいわかっていた。わかっていたのはそれくらいかな。あとはもう、行き先は马に闻いてくれみたいな……。
もともとは『世界の终りとハードボイルド・ワンダーランド』の続编みたいなものを书こうと考えていたんです。小说の最后の方で森に入っていった人々のその后のことが、仆自身気になっていたから、そういうことについて书いてみたいという気持ちはあった。でも具体的に考えれば考えるほど、そんなことは不可能なんだとだんだん思えてきた。『世界の终りとハードボイルド・ワンダーランド』を书いてからもう15年以上たっているからね。それでぜんぜん违う小说を书こうと思ったんだけど、やっぱり森のイメージだけは描いてみたかった。そのへんの思いはけっこう强かったですね。
――15歳の少年を主人公にしようというのは、かなり早い段阶で决まっていたのですか?
そうです。决まっていた。とにかく15歳の少年を中心に据えて话を动かしてみようと。そうすればいろんなことがうまく行きそうに思えたんです。そのことは书き始める一年前に决めていて、そのアイデアを头の中にずっと寝かせていた。その少年が动きやすい环境を意识の中でじわじわと作っていったんです。で、そういう环境が整ったと感じたあたりで书き始めた。仆は小说を书くことに関してはけっこう気长というか、わりに待つんです。じっと。タイミングがほとんどすべてだから。
仆の小说にはこれまで20代后半から30代前半くらいの主人公というか、语り手が多かったと思うんだけど、それを今回15歳にすることによって、小说的な视点をいろんな方向にシフトできる位置をうまく见つけられたなという気がしたんです。仆自身すごく自由になれたという感覚があった。「仆でありながら仆でない」という自立性みたいなものが、よりくっきりしたというか。
主人公を15歳の少年に设定したことによって、もちろん文体も変わってきます。たとえば15歳の少年はそんなに华丽な比喩を使ったりはしない。彼はある意味では切羽诘まったところでぎりぎりに生きているから、文体もそれにあわせてクリスプになってくる。物语を有効にサーバイブするための文章になってくる。そうならざるを得ない。凝ったレトリックも必要ではなくなってくる。もちろん文章はずいぶん注意深く书き直したけど、书き直せば书き直すほどシンプルになってくるというところはありましたね。そのへんがこれまでの仆の文体との违いになっているかもしれない。
仆がとくに気をつけたのは、15歳の少年が出てくるからといって、あまり启蒙的にはならないようにしようということです。彼を导いてやろうとか、そういうことはするまいと。仆がやりたかったのは、彼に考えさせること。自分の头で判断させること。作者が彼を导いてはいけない。さっきの话で言えば、いろんな元型の姿を彼の前に示して、それを彼が自然に理解し、呑み込み、受け入れていくようにすること。それが作者に与えられた大事な役目なんだと思います。
――この作品では、神话性というものが强くあらわれています。
たとえば『アンダーグラウンド』の仕事をして、それが仆に与えたものの重みや意味を谁かに说明することって、事実上不可能なんです。もしやったとしたら、それはかなり伪善的なものになると思います。多かれ少なかれ言叶だけのものになってしまう。腹にたまらないというか、少なくとも人の心にはまっすぐ届かないんじゃないかと。新闻なんかのインタビューを受けていて、そういう质问をされるたびに仆の中に空しさみたいなものがこみ上げてくるんです。无力感というか。そういうのって仆のやるべきことじゃないなとつくづく思ってしまう。
仆がやるべきことはたぶん、それを言叶で说明することではなく、物语という新しい土地に移しかえることなんだよね。というか、物语的にそれを俯瞰すること。そこにあるビジョンを、フィクション総体にぱっと焼きつけてしまう。たとえはちょっと変だけど、レインマンが床に散らばったおはじきを数えるとき、まずそこにある光景を静止したビジョンとして自分の头にぱっと焼きつけてしまうんですね。いちいち数を数えたりはしない。小说家というのはそれとだいたい同じようなことをやるわけです。要するにものごとを别の回路に放り込んでしまう。そしてその回路の持つ特定の生理を通して物事を理解する。简単に言えばそれがフィクション化ということです。
神话というのも、要するに别の同时的回路なんです。神话という元型回路が我々の中にもともとセットされていて、仆らはときどきその元型回路を通して同时的にものごとのビジョンを理解するんです。だからフィクションは、ある场合には神话のフィールドにぽっと収まってしまうことになる。物语が本来的な物语としての机能を果たせば果たすほど、それはどんどん神话に近くなる。もっと极端な言い方をするなら、分裂症的な世界に近くなっていくということかもしれない。
そういう意味では仆の小说は、基本的に解析には向かないところがあるんじゃないかな。世间には仆の小说についての解说书がずいぶんいっぱい出ているみたいだけど、そういうのもその理由のひとつなんじゃないかという気がします。别に自慢するわけじゃないけど、ふとそう思うことがあるんです。仆は自分の中にある元型みたいなものをいちいち分析するんじゃなくて、それを石みたいに呑み込んで物语を书いているんじゃないかって。何も考えないで书いているんですよね、结局のところ。そのへんの感覚がどの程度まで読者に伝わっているかというのは自分ではよくわからないけど。
――村上さんにとって、小说を书くというのはどんなことなのでしょう。
小说を书く、物语を书く、というのは煎じ诘めて言えば、「経験していないことの记忆をたどる」という作业なんです。もっとわかりやすく言うと、あなたが未経験のロールプレイング・ゲームをする。でもそのゲームをプログラムしたのはあなたなんです。でもその记忆は、ゲームをするあなたの人格からは失われてしまっている。一方で、そのプログラミングをしたあなたの人格はゲームをしていない。そういうかなり分裂的な作业なんです。右手は左手のやっていることを知らないし、左手は右手のやっていることを知らない。そういう作业が明确に分裂すればするほど、そこから生み出される物语は说得性を持つ。つまりあなたの中の元型により近接するということになるんです。うまく说明できないけどね。
だから要するに、もちろん仆の场合で言えばということだけど、最初に结论ありきじゃ物语にならない。わからないところに、ゼロから物语を立ちあげていくから意味がある。结末のわかっているスポーツ・ゲームと同じで、予想できるような物语には意味がないんです。でもそれと同时に、必ず意味のある结论にたどり着けるという确信はある。で、そこにあるはずの结论にどのようにしてたどり着くか? それがいちばん大事な问题になってきます。
――最后に読者へメッセージを。
この『海辺のカフカ』という小说については、というかほかの小说についてもそれはみんな同じなんだけど、とくにこの小说については、仆はあんまり解釈みたいなことをしたくないんです。言叶でいちいち解釈しちゃうと多かれ少なかれ嘘になっちゃうし、意味ないから。もちろんこれは実作者の侧から言って、ということですけどね。仆としては読者のみなさんに、解析とかそういうこと抜きで、総体としての物语を、情景を、なるべくそのままのかたちでぽっと受け入れてもらえればいいなと思っています。むずかしいことを讯かれても、仆にもよくわからないし。
『海辺のカフカ』について
村上春树氏待望の长编小说『海辺のカフカ』が刊行されます。作者にこの小说が完成するまでの话を语って顶きました。
――タイトルは、いつどのように决まったのですか。
いつ思いついたのかな。よく覚えてないけど、书き始めてしばらくしてからだったと思いますね。カフカはもちろん仆の好きな作家だし、音の响きも好きだった。「海辺のカフカ」って、なんかイメージを唤起するものがありますよね。何かの拍子にふと思いついて、头の中でしばらくその响きを転がしてみて、「うん、これでいこう」って思いました。そのあとはそれ以外のタイトルって思い浮かばなかったですね。
――书き始めたのはいつ顷ですか。
面白いんだけど、ちょうど野球シーズンの开幕まもなくの顷に书き出して、ヤクルトが优胜を决めたころに第一稿を书き上げたんです。これって『风の歌を聴け』と同じなんです。あのときも开幕日に书き始めて、优胜が决まった顷に书き上げた。広冈监督のもとで初优胜したときです。なんか因縁みたいだけど。
――『ねじまき鸟クロニクル』以来の长い小说ですね。
『ねじまき鸟クロニクル』を书いたあと、とにかく自分の中にあった物语的なものをオールアウトで出し切ったという感じだったんです。四年くらいかけて延々と长い话を书いていたからね。四年はまあ长かったな。そのあいだずっとアメリカに暮らしてましたしね。
へとへとに疲れて、もう何も考えられなくて、そのあといくつか短编小说は书いたけど、长编小说を书こうなんていう気はぜんぜん起きなかった。次に『アンダーグラウンド』に行ったわけですが、『アンダーグラウンド』はノンフィクションというか、要するに闻き书きだから、他人の物语を采集する作业なんですね。どんどん吸い込んでいく作业なんだ。それに対して小说を书くというのは、これまでためこんだものを吐き出す作业です。そういう意味ではまったく逆のことをやっていたわけです。一年间かけてできるだけうしろに引いて自分の気配を杀して、他人の话に耳を倾けて、それを自分の中に积み上げていったんです。
でもね、自分の中にいったん取り込んだものを、物语のかたちにうまく変换して、外に出していけるようになるまでにはやっぱり时间がかかるんです。そんなに都合よくすっと出てくるものじゃない。积み上げるだけ积み上げておいて、あとは鸟が卵をあたためるみたいにしっかりと抱えこんでいなくちゃならない。体験の规模が大きければ大きいほど、意味が深ければ深いほど、その时间は长くなるんです。じっと我慢して待っていなくちゃならない。
『アンダーグラウンド』を书いてしばらくして、どうしても小说を书きたいという気持ちになって、それで『スプートニクの恋人』を书きました。仆はやっぱり小说家だから、ある程度时间がたつと、小说って自然に书きたくなるんです。ダムに水がたまるみたいな感じで。でもその时点ではまだ、『アンダーグラウンド』の作业のあいだに仆がインテイクしたものを、うまくアウトプットするための准备は整っていないなっていうことが、自分でもわかっていた。まだ仆は中间地点にいるんだっていうことが。
だから仆としてはとにかく『スプートニクの恋人』では、次の长编小说のための准备みたいなことをしておこうと考えたわけです。野球でいえば、シャープな単打を狙っていこうと。长距离を狙うんじゃなくって。仆はそのためには、まず文体の整备をしてみたかった。具体的にいえば、これまで仆が使ってきた文体の総ざらえみたいなことを、ここでとことんやっちまおうと。そういう実験的なことをするには、あれくらいの长さの小说って绝好の场所なんですね。仆は「中编小说」って位置づけているんだけど、短编では入れ物として短すぎる、でも本格的な长编まではもっていけない、というあたりの长さ。だからね、あの『スプートニクの恋人』という小说は、物语という以前に、文体のショーケースみたいになっている。文体の问题をどこまでもぐいぐい追求していったら、こういう话になりましたみたいな。
そのあとしばらくして、今度はまとめて短编を书いてみようと思った。それが『神の子どもたちはみな踊る』です。ここでも仆がいちばん意识したのは、文体の问题です。今度は全部三人称で、いろんな文体で、ワンテーマで、それぞれにまったく异なった种类の物语を书いてみることにした。それをひとつにまとめて「コンセプト・アルバム」みたいにしようと。仆はこれまでだいたいにおいて一人称で物语を书いてきたから、三人称の経験ってあまりないんです。でもとにかくやってみようと思った。どうしてそう思ったかっていうと、いろんなボイスが组み合わさった长编小说をこの先书くためには、三人称を有効に使う必要があったからです。もちろん一人称だけでもそういうことはある程度できるんです。そのへんは纯粋にテクニックの问题だから。でもね、もうひとつ小说のスケールを大きくするためには、ボイスの多様化というのはどうしても避けて通れない问题だった。
そういう気持ちになったのは、やはり『アンダーグラウンド』を书いた影响が大きかったと思います。あの仕事のあと、ずいぶん时间がたってからも、いろんな人々のボイスが仆の头の中でずっと响いていて、そういう存在感みたいなのはけっこう强かったんです。とてもリアルだったし、切迫したものだった。仆としてはそういう肌身の感覚を大事にしたかったんです。そういうことも、自分の文体をあるレベルでは作りかえようと考えた契机にはなっているんじゃないかな。
――この小说ではいくつかの话がばらばらに始まって、それぞれに物语が进んで、络み合っていくわけですが、设计図みたいなものは最初からあったのですか?
いや、そういうものは何もないです。ただいくつかの话を同时的に书き始めて、それがそれぞれ胜手に进んでいくだけ。なんにも考えてない。最后がどうなるかとか、いくつかの话がどう结びつくかというのは、自分でもぜんぜんわかりません。物语的に言えば、先のことなんて予测もつかない。ただ、书き始めるときに「森のことは书きたいな」と思っていました。それは『世界の终りとハードボイルド・ワンダーランド』のイメージの続きとしてね。だから先になって森の中の世界が出てくるということはだいたいわかっていた。わかっていたのはそれくらいかな。あとはもう、行き先は马に闻いてくれみたいな……。
もともとは『世界の终りとハードボイルド・ワンダーランド』の続编みたいなものを书こうと考えていたんです。小说の最后の方で森に入っていった人々のその后のことが、仆自身気になっていたから、そういうことについて书いてみたいという気持ちはあった。でも具体的に考えれば考えるほど、そんなことは不可能なんだとだんだん思えてきた。『世界の终りとハードボイルド・ワンダーランド』を书いてからもう15年以上たっているからね。それでぜんぜん违う小说を书こうと思ったんだけど、やっぱり森のイメージだけは描いてみたかった。そのへんの思いはけっこう强かったですね。
――15歳の少年を主人公にしようというのは、かなり早い段阶で决まっていたのですか?
そうです。决まっていた。とにかく15歳の少年を中心に据えて话を动かしてみようと。そうすればいろんなことがうまく行きそうに思えたんです。そのことは书き始める一年前に决めていて、そのアイデアを头の中にずっと寝かせていた。その少年が动きやすい环境を意识の中でじわじわと作っていったんです。で、そういう环境が整ったと感じたあたりで书き始めた。仆は小说を书くことに関してはけっこう気长というか、わりに待つんです。じっと。タイミングがほとんどすべてだから。
仆の小说にはこれまで20代后半から30代前半くらいの主人公というか、语り手が多かったと思うんだけど、それを今回15歳にすることによって、小说的な视点をいろんな方向にシフトできる位置をうまく见つけられたなという気がしたんです。仆自身すごく自由になれたという感覚があった。「仆でありながら仆でない」という自立性みたいなものが、よりくっきりしたというか。
主人公を15歳の少年に设定したことによって、もちろん文体も変わってきます。たとえば15歳の少年はそんなに华丽な比喩を使ったりはしない。彼はある意味では切羽诘まったところでぎりぎりに生きているから、文体もそれにあわせてクリスプになってくる。物语を有効にサーバイブするための文章になってくる。そうならざるを得ない。凝ったレトリックも必要ではなくなってくる。もちろん文章はずいぶん注意深く书き直したけど、书き直せば书き直すほどシンプルになってくるというところはありましたね。そのへんがこれまでの仆の文体との违いになっているかもしれない。
仆がとくに気をつけたのは、15歳の少年が出てくるからといって、あまり启蒙的にはならないようにしようということです。彼を导いてやろうとか、そういうことはするまいと。仆がやりたかったのは、彼に考えさせること。自分の头で判断させること。作者が彼を导いてはいけない。さっきの话で言えば、いろんな元型の姿を彼の前に示して、それを彼が自然に理解し、呑み込み、受け入れていくようにすること。それが作者に与えられた大事な役目なんだと思います。
――この作品では、神话性というものが强くあらわれています。
たとえば『アンダーグラウンド』の仕事をして、それが仆に与えたものの重みや意味を谁かに说明することって、事実上不可能なんです。もしやったとしたら、それはかなり伪善的なものになると思います。多かれ少なかれ言叶だけのものになってしまう。腹にたまらないというか、少なくとも人の心にはまっすぐ届かないんじゃないかと。新闻なんかのインタビューを受けていて、そういう质问をされるたびに仆の中に空しさみたいなものがこみ上げてくるんです。无力感というか。そういうのって仆のやるべきことじゃないなとつくづく思ってしまう。
仆がやるべきことはたぶん、それを言叶で说明することではなく、物语という新しい土地に移しかえることなんだよね。というか、物语的にそれを俯瞰すること。そこにあるビジョンを、フィクション総体にぱっと焼きつけてしまう。たとえはちょっと変だけど、レインマンが床に散らばったおはじきを数えるとき、まずそこにある光景を静止したビジョンとして自分の头にぱっと焼きつけてしまうんですね。いちいち数を数えたりはしない。小说家というのはそれとだいたい同じようなことをやるわけです。要するにものごとを别の回路に放り込んでしまう。そしてその回路の持つ特定の生理を通して物事を理解する。简単に言えばそれがフィクション化ということです。
神话というのも、要するに别の同时的回路なんです。神话という元型回路が我々の中にもともとセットされていて、仆らはときどきその元型回路を通して同时的にものごとのビジョンを理解するんです。だからフィクションは、ある场合には神话のフィールドにぽっと収まってしまうことになる。物语が本来的な物语としての机能を果たせば果たすほど、それはどんどん神话に近くなる。もっと极端な言い方をするなら、分裂症的な世界に近くなっていくということかもしれない。
そういう意味では仆の小说は、基本的に解析には向かないところがあるんじゃないかな。世间には仆の小说についての解说书がずいぶんいっぱい出ているみたいだけど、そういうのもその理由のひとつなんじゃないかという気がします。别に自慢するわけじゃないけど、ふとそう思うことがあるんです。仆は自分の中にある元型みたいなものをいちいち分析するんじゃなくて、それを石みたいに呑み込んで物语を书いているんじゃないかって。何も考えないで书いているんですよね、结局のところ。そのへんの感覚がどの程度まで読者に伝わっているかというのは自分ではよくわからないけど。
――村上さんにとって、小说を书くというのはどんなことなのでしょう。
小说を书く、物语を书く、というのは煎じ诘めて言えば、「経験していないことの记忆をたどる」という作业なんです。もっとわかりやすく言うと、あなたが未経験のロールプレイング・ゲームをする。でもそのゲームをプログラムしたのはあなたなんです。でもその记忆は、ゲームをするあなたの人格からは失われてしまっている。一方で、そのプログラミングをしたあなたの人格はゲームをしていない。そういうかなり分裂的な作业なんです。右手は左手のやっていることを知らないし、左手は右手のやっていることを知らない。そういう作业が明确に分裂すればするほど、そこから生み出される物语は说得性を持つ。つまりあなたの中の元型により近接するということになるんです。うまく说明できないけどね。
だから要するに、もちろん仆の场合で言えばということだけど、最初に结论ありきじゃ物语にならない。わからないところに、ゼロから物语を立ちあげていくから意味がある。结末のわかっているスポーツ・ゲームと同じで、予想できるような物语には意味がないんです。でもそれと同时に、必ず意味のある结论にたどり着けるという确信はある。で、そこにあるはずの结论にどのようにしてたどり着くか? それがいちばん大事な问题になってきます。
――最后に読者へメッセージを。
この『海辺のカフカ』という小说については、というかほかの小说についてもそれはみんな同じなんだけど、とくにこの小说については、仆はあんまり解釈みたいなことをしたくないんです。言叶でいちいち解釈しちゃうと多かれ少なかれ嘘になっちゃうし、意味ないから。もちろんこれは実作者の侧から言って、ということですけどね。仆としては読者のみなさんに、解析とかそういうこと抜きで、総体としての物语を、情景を、なるべくそのままのかたちでぽっと受け入れてもらえればいいなと思っています。むずかしいことを讯かれても、仆にもよくわからないし。
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