谁有 きつねの窓 的日语原文啊? 要写个论文,急用 5

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龙威卡卡
2010-09-06 · TA获得超过917个赞
知道小有建树答主
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子供はファンタジーが好き

「きつねの窓」の作者?安房直子さんは、安房さんが童话作家を志した
动机を次のように书いています。

私が、童话を志した动机をひとことで言うとしましたら、私自身が、子供
の好きなものを大好きだからという事になるでしょうか。つまり、子供がゆ
めみたり憧れたり、信じたりするもの……小人とか妖精とか、魔女とか、も
のをしゃべる动物たち……などなど、この世の中には、决してあるはずのな
いもの、それでいて、ひょっと、どこかにかくれているかもしれない様なか
んじがする、そういうものたちに、子供の顷に胸がふるえるほど憧れて、お
となになっても憧れ続けてそれで结局、そういう物语を书く様になったので
す。 (中略)
决して现実にはおこらない事を、ありありと书きたいというのが、私の愿
いです。エレベーターが、空にうかぶ事など决しておきないけれど、でも、
私の本の中では、それは本当なのです。私の物语を読んでいるそのあいだだ
けは、本当に、小人も妖精も魔女もちゃんといて、その姿がみえて、さわれ
て、声が闻こえるように、読者に感じてもらいたいのです。かぎられた小さ
な本の中ですが、私の本の中では、みんな本当にあったことなのです。
ですから、空想の物语というのは、现実の事を书いた作品よりも、いっそ
う「本当らしく」なければならないと、私は思います。この世では决して见
ることのできないもの、おきることのないはずのものの事が、「手にとるよ
うに本当らしく」书かなければならないのだと。
児言研机関志『国语の授业』1992年6月号より引用

安房直子さんはファンタジー作家と言われています。安房さんの言叶は
ファンタジーというものをとてもよく说明してくれていると思います。ファ
ンタジーとは、现実にはおこらない出来事を本当にあったことのようにあり
ありと描いた作品です。决してあるはずのないことを、ひょっとするとどこ
かに隠れているかもしれない感じがする、特に子供の心にはそういうものに
胸がふるえるほど憧れているもの、そういう出来事を描いた作品です。
ファンタジー作品は、ありもしない嘘を、さも本当のことのように胸お
どらせ、どきどきしながら、それがさも本当のことのようにありありと思い
浮かべて物语世界をおもしろく、楽しんで読んでいく作品です。ファンタジ
ーとは、子どもの変身愿望を満足させ、新しい世界を提示し、胸どきどきの
好奇心をそそらせ、ものの见方を変えてくれる作品です。

「きつねの窓」の主题

教出本では「きつねの窓」は「本の世界を深めよう」の読书単元として
位置づけられ、「読书座谈会」とセットになっており、そのなかで「きつね
の窓」の読书感想発表をするようになっています。
読书感想発表会では、主题についても话题になるでしょう。「きつねの
窓」の主题は何でしょうか。
小西正保(児童文学评论家)さんは、安房作品には「特异な想像世界」
があり、「色によるイメージ构成、色彩感覚」と「食べのもの、料理への魅
力」がある、さらに「死者との対话、死者への思い」とでもいうべき主题が
あると书いています。
「きつねの窓」の主题について小西さんは次のように书いています。

主人公の「ぼく」もそんな窓がほしくなって指を染めてもらう。すると指
の窓に现れたのは、むかし大好きだった、いまはもう决して会うことのでき
ない少女の姿だった。次に现れるのは「ぼく」の昔の家の庭である。母の声
がきこえる。死んでしまった妹の声もきこえてくる。
しかし、この甘美な幻想も「ぼく」が家に帰って、つい习惯で手を洗って
しまうことによって消え失せてしまうのである。ききょうの花畑といい、き
つねの化けた染物屋といい、指の窓に现れる死者たちの姿といい、いずれも
美しい想像世界だ。だがその底には、残されたものの限りない淋しさのよう
なものが漂っている。
(中略)
「雪の窓」「鹤の家」「长い灰色のスカート」「ハンカチの上の花畑」な
どの作品にも、それぞれに死者との対话を描いていて、ときに暗い印象もな
いではない。しかし、それらはときに甘美であり、ときに読者の郷愁を诱う
ものであり、いずれも风景として美しい。
児言研机関志『国语の授业』1922年6月号より引用

小西さんの主题把握は、わたしも「成程、そうですね。」と思います。
多くの人もそう思うでしょう。しかし、ファンタジー作品は多様な読み取り
ができますので、読み手によって主题把握に微妙な差がでてきます。
たとえば鉄炮について考えてみましょう。きつねの指の窓にきつねの母亲
の姿が现れ出ます。きつねは死んだ母亲だと、ぼくに告げます。次の地の文
に「きつねはぱらりと両手を下ろして、うつむきました。」と书いてありま
す。主语が「きつね」です。うつむいた人物が「ぼく」でなく「きつね」で
す。もしかすると「ぼく」がきつねの母亲を杀したのかもしれないのにで
す。きつねには母亲を杀された仇敌の憎悪があるとは少しも、そうは読み取
れません。鉄炮で杀すということについての深い掘り下げがありません。中
途半端で、はぐらかされてしまいます。
きつねもぼくも、二人とも指の窓の中に死んだ母亲の姿が现れ出ます。
なぜ母亲なのかも书かれていません。二人とも、独りぼっちでさびしいと书
いてあります。二人には母がいない丧失感が漂っていることは分かります。
ぼくはきつねに鉄炮をわたしてしまうほど母亲に会いたかったと読めないこ
ともありません。结论を得るにはどうも中途半端です。
この作品の主题はこうだと结论を一つにしぼることはできません。読书
感想発表会では、「きつねの窓」を読んで、どこかにひっかかるところがあ
るでしょう、どこがおもしろかったか、どこに深く印象が残ったか、読み终
えたあとどこが気にかかっているか、どこに生き方や人生を考えるきっかけ
を感じとったか、そんなことをいろいろと话し合ってみましょう。语り合っ
てみましょう。
安房直子さんは、こう言っています。「実际「きつねの窓」には、はっき
りしたテーマもなく、ずいぶん教えにくい教材ではないかと思います。もし
も私が教师だったら、こういう作品を扱うのは、とてもむずかしい様な気が
します。」(「日本児童文学」1919年9月号より引用)
主题はこうだと一つにしぼるのではなく、この作品を契机に、この作品
を読んだことによって、今までの自分の世界とは违った别世界の存在がある
こと、别世界の存在に気づいたり、别世界が开示されるきっかけが与えられ
たり、それが将来に花开く(思い出す)かもしれないし、しないかもしれな
い、そんな把握ができたらよいのではないでしょうか。
まずは幻想的な非现実世界のストーリーのおもしろさを楽しむことで
す。おもしろく引き込まされて読んでいくことです。全体が青色がかったあ
りもしない非现実世界を美しい続き絵としてあざやかにイメージしながら、
胸おどらせ、どきどきしながら読み进むおもしろさを味わうことが重要なの
です。

ぼくの目や気持ちになって

この作品の地の文は、ぼくの视点から书かれています。ぼくの目に见え
た事柄を、ぼくの気持ちをとおして描かれています。ぼくの目に见えたこと
について、ぼくはどんな気持ちで受けとったか、どう感じとったか、どう考
えたか、どう思ったかについて书いてあります。つまり、その时の、ぼくの
ものの见え方(観点)からしか书かれていません。ですから、音読するとき
は、読み手は、ぼくの気持ち(ものの见え方)と重なって読んでいくことに
なります。ぼくの気持ちに入り込んで、ぼくと同じ体験をしていけばよいこ
とになります。ぼくの目や気持ちになって読んでいくと、いつのまにか非现
実の世界の入り込み、引き込まされていくようになります。
一人芝居という剧舞台がありますが、「きつねの窓」は全编が「ぼく」
の独り语りになっており、「ぼく」の気持ちの中身や、その変化だけが克明
に书かれています。ですから、読者はいつのまにか「ぼく」の心中に入り込
んで読み进めるようになります。
次に、そのことを「きつねの窓」の冒头の文章个所から调べてみよう。
┌—————————————————————┐
│ いつでしたか、山で道に迷った时の话です。│
└—————————————————————┘
记忆のはっきりしてない远い过去の出来事を回想して、闻き手を意识
し、闻き手に向かって语りかけています。はっきりと思い出せないが、これ
からの话はぼくが道に迷った时の话だ、と语りだしています。ぼんやりとし
た头の中の记忆を手缲り寄せて、思い出している音调で音声表现していきま
す。
┌———————————————————————————————┐
│ ぼくは、自分の山小屋にもどるところでした。歩き惯れた山道を、│
│ 鉄炮をかついで、ぼんやり歩いていました。そう、あの时は、全 │
│ くぼんやりしていたのです。昔大好きだった女の子のことなんか │
│ を、とりとめもなく考えながら。 │
└———————————————————————————————┘
ぼんやりした记忆から手缲り寄せた事柄を报告している音调で読みま
す。思い出した记忆を事実としてはっきりと闻き手に伝わるように音声表现
します。二つの「ぼんやり」は「ボーンヤ-リ」と伸ばして强调表现にする
とよいでしょう。ぼうーんやーりと歩いていたことが、あいまいやあやふや
さが、次の非现実の幻想世界へ诱导していくきっかけになっています。「そ
う」は、「そう、そう、思い出した、そうだったなあ」というつもりで転调
して音声表现していくとよいでしょう。やや半分ぐらい独り言みたいなつも
りで読んでいきます。
┌————————————————————————————————┐
│ 道を一つ曲がった时、ふと、空がとてもまぶしいと思いました。ま │
│ るで、みがきあげられた青いガラスのように……。すると、地面も、│
│ なんだか、うっすらと青いのでした。 │
└————————————————————————————————┘
空が「まぶしい」を、「マブシーイー」のように强调表现にします。そ
の「マブシ-イー」が「まるで、みがきあげられた青いガラスのように」な
のですから、二つがくっつくように音声表现します。「空は青いガラスのよ
うにまぶしい」と「地面はうっすらと青い」と、二つの対比表现が音声に出
るように読みます。
「きつねの窓」の文体の特徴である全编青色に彩られていることがここ
から始まります。ぼくは今いる世界が、うっすらと青く、そしてまぶしいと
感じています。このへんから読者を非现実の幻想世界へと诱导する书かれ方
になっていっています。次の文章は、いよいよぼくが非现実の世界へ入り込
んだことを、ぼくの独り言みたいな自己内対话として书かれています。
┌———————————————————————————————┐
│ 「あれ?。」 │
│ いっしゅん、ぼくは立ちすくみました。まばたきを、二つばかり │
│ しました。ああ、そこは、いつもの见惯れたすぎ林ではなく、広 │
│ 々とした野原なのでした。それも、一面、青いききょうの花畑な │
│ のでした。 │
└———————————————————————————————┘
ぼくは、立ちすくみ,一瞬まばたきをします。いつもの见惯れた杉林で
なく、ききょうの花畑に入り込んだことを読者に告げるように音声表现して
いきます。
┌——————————————————————————————┐
│ ぼくは息をのみました。いったい、自分は、どこをどうまちがえ│
│て、いきなりこんな场所にでくわしたのでしょう。だいいち、こ │
│んな花畑が、この山にはあったのでしょうか。 │
│〈すぐ引き返すんだ。〉 │
│ぼくは、自分に命令しました。その景色は、あんまり美しすぎま │
│した。なんだか、そらおそろしいほどに。 │
└——————————————————————————————┘
このあたりの地の文は、ぼくの心内语といってもよいでしょう。ぼくが心の
中で思ったこと、考えたことが书かれています。ぼくの独り言です。完全に
口の中でもそもそ言う独り言ではありませんが、自分の行动を反省し、これ
からの自分の行动を修正し、それを自分に命令している、そんな思考の経过
を読者に报告している内容の地の文です。半ば独り言の音调みたいにして音
声表现していくとよいでしょう。自分の思考の経过を语るように読むとよい
でしょう。
┌—————————————————————————————┐
│ けれど、そこには、いい风がふいていて、ききょうの花畑は、│
│ どこまでもどこまでも続いていました。このまま引き返すな │
│ んて、なんだかもったいなさすぎます。 │
│ 「ほんのちょっとやすんでいこう。」 │
│ ぼくは、そこにこしを下ろして、あせをふきました。 │
└—————————————————————————————┘
ぼくの気持ちが変化したことを音声で知らせます。転调して(気分を変
えて、明るく)「けれど」と読み出していきます。気持ちが変わったこと、
明るい雰囲気にして场面転换して読み出していきます。いい风が吹いてい
て、青いききょうの花畑がどこまでも続いていることを、事実の报告とし
て、淡々と、ゆっくりと読んで読者に伝えていきます。

役割音読で楽しもう

ぼくがきつねを见失い、ぽかんと立ちつくしていると、后ろで「いらっ
しゃいまし。」と変な声が闻こえます。ここから、ぼくときつねの长い対话
场面が展开していきます。この対话は、最后部に近い、ぼくがきつねになめ
このお土产をもらい、きつねがぼくに「今夜のおつゆにしてください。」と
言うまで続きます。ここまでの会话文は、地の文を削除して、会话文だけを
声に出して読んでいっても、ちっとも変ではありません。剧舞台の一场面の
リアルな场面构成みたいな音声表现にします。
染物屋はきつねが化けた人物だと知りつつ、ぼくはきつねと长いおしゃ
べりを楽しみます。最初はきつねをつかまえようと话し始めたのでしたが、
最后にきつねは自分が大事にしていた鉄炮まできつねに渡してしまいます。
长い対话部分は、地の文を削除しても、剧でいえば染物屋の舞台装置、
染物屋の舞台上で演じられるぼくときつねの対话场面の构成になっていま
す。
学级児童たちを二人组みグループに分けます。会话文だけを取り出し
て、ぼくときつねの役割音読をさせましょう。できれば剧仕立てに部分的に
动作を入れた役割音読をさせたらどうでしょう。二人组み児童の中には完全
な剧表现をしたいというグループがあるかもしれません。そのグループには
一、二周间ほどの时间を与え、完全な剧として台本作りをさせ、练习时间を
与えて、この部分だけの剧発表をさせたらどうだろう。学びの场所を、座学
から开放し、表现する身体を动的な教室空间に変更することはとても重要な
ことです。
本文文章には、九割以上の会话文に、その会话文がどんな表情や动作を
しながら话されたか、どんな音调で话されたかの添え书きが书かれていま
す。
たとえば、次のようにです。

「ねえ、ちょっと、のぞいてごらんなさい。」
と、楽しそうに言うのです。
「うう?」
ぼくは、気ののらない声を出しました。
「まあ、ちょっとだけ、のぞいてごらんなさい。」
そこで、ぼくは、しぶしぶ窓の中をのぞきました。そして、ぎょうてんしま
した。
「こ、こりゃあいったい………。」
ぼくは、あんまりびっくりして、もう声が出ませんでした。きつねは、ぽつ
りと言いました。
「これ、ぼくの母さんです。」

「楽しそうに言う」「気ののらない声を出す」「しぶしび窓の中をのぞ
く、ぎょうてんする」「あんまりびっくりして声が出ない」「ぽつりと言
う」など。これら添え书きに注目させ、これらの指示に従った音调で会话文
を表现させ、动作を入れて音声表现させると、よりぴったりした音声表现に
なります。

参考资料

安房直子さんは、自作「きつねの窓」が教科书教材となるに当たり、次
のような文章を书いています。教师たちに、私の作品を「あまり切りきざま
ずに、まるごと読んでほしい」と书いています。
ーーーーーー引用开始ーーーーーーーー
「きつねの窓」が、教科书にとりあげられる様になってから、十数年の月
日がたちます。ずいぶんたくさんの子供达が、私の作品を読んでくれたのだ
と、それを思うと、うれしい様な、面映い様な、それでいて、ふと、これで
いいのかなあという様な、复雑な気持ちです。
はじめに、教科书掲载の话があった时は、信じられない気がしました。教
科书に载る文学作品というのは、古典に决まっていると思っていたからで
す。
なんと、光栄な……と、浮きたつ思いで承诺して、しばらくしてから「き
つねの窓」を习いながら、子供达は汉字の练习をするのかなあと、思いまし
た。「段落に区切って、内容を书きなさい」などという事も、させられるの
でしょうか。それから、感想文を书かされ、最后に、テストがあるのでしょ
うか。
そんな事を考えたら、少しゆううつになりました。そして、私の作品は、
やはり、教科书よりも、自由な読书の中で読まれるほうが、よかったのでは
ないかと、思ったのでした。実际「きつねの窓」には、はっきりしたテーマ
もなく、ずいぶん教えにくい教材ではないかと思います。もしも私が教师
だったら、こういう作品を扱うのは、とてもむずかしい様な気がします。
「きつねの窓」が、どんな教えられ方をしているのか、よくわからないま
まに、月日が过ぎてゆきましたが、そのうちに、ぽつりぽつりと、読者から
手纸が来る様になりました。「教科书で「きつねの窓」を习いました」とい
うもので、それは、たいてい、二学期のおわりから、三学期にかけてでし
た。
かわいいシールのはられた、色とりどりの封筒をあけてみると、中は様々
で、素朴な感想の手纸に、指で作った窓の絵が描かれていたり、学校の様子
やが、长々と缀られていたりします。手制のしおりや押し花が同封されてい
るのもあったりして、急に、私の読者は、ふえてきました。中でも、うれし
かったのは、
「こんな不思议な物语を、私は、はじめて読みました」
という手纸です。それまであまり、ファンタジーというものになじめなかっ
た子供が、教科书を通じて、こういう世界に目をひらかれたのでしょう。ま
た、
「教科书で、「きつねの窓」をならったのをきっかけに、あなたの、べつの
本も読みました」
というのもありました。
こういった手纸をもらってはじめて、私は、教科书というものは、子供达
に、読书のきっかけをつくってくれるのだなあと思いました。つまり、子供
达に、それまで知らなかった新しい世界を教えてくれる道案内の役目もして
いるのです。
そういえば、私も、中学の教科书で、「衣川の馆」という作品を习って、
日本の古典文学を好きになったのですし、三好达治、千家元麿などという诗
人も、はじめに出会ったのは、教科书でした。教科书で习った以上、汉字の
练习もあったでしょうし、テストもあったのでしょう。が、そういう重苦し
い事を、今はすっかり忘れて、千家元麿の『麦』という诗を、それが、教科
书の巻头に载っていたがために、一层懐かしく思い出したりするのです。今
でも、あの诗を口ずさみますと、新学期の真新しいセーラー服が思い出され
て、胸があつくなったりします。
私の「きつねの窓」も、教科书の中で、どうかそんな役目を果たしてほし
いと思います。
そして最后に、ささやかな愿いをひとつ。国语教育というものが、文学の
教育と、言叶の教育に分けられるとしたら、私の作品は、どうか、なるべ
く、文学の教材として、あまり切りきざまずに、まるごと読まれてほしいと
愿っています。
『日本児童文学』1991年9月号より引用
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