求日本便当文化的文献资料吖。。谢谢大家。
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日本の文献资料;
日本では昔から、上流社会は洗练された高価な漆涂りの弁当箱を用い、一方、労働者、渔夫、工员、学生などは、编笼や木制(最近ではアルミやプラスチック)の简素な物を使ってきました。ここで、日本では人前で食事することはあまり良いたしなみとは思われていなかった、ということに注意してください。贵族や武士たちは、家の外で食事する必要のあるときは自分の食事を持っていくのが常でした。これは多分、他人に食物を手渡すとか、他人の作った食事を食べることから生じる「浄」「不浄」の感覚と関系があったのでしょう。
実际、弁当を大量に作るというようなことは、一五世纪になるまで见られませんでした。これが徐々に完成されたのは江戸时代後期になってからです。食材の种类が増え、食物の保存法が向上して、惣菜のメニューが増えました。茶の汤は日本食文化の発达に重要な役割を果たしました(『日本の近世』、熊仓功夫、一九九三;アエリア、一九九五年九月、一九九六年五月、一九九六年九月)。
弁当箱の种类が豊富になり洗练されていくのには、戦争と平和のどちらもが大きな役割を果たしました。その影响は、これから见るように、非常に异质のものでした。
室町时代、桃山时代は、江戸时代同様、弁当の歴史に大きな役割を果たしています。戦时には兵士たちは、安全で持ちやすい方法で自分用の食料を携帯しなければなりませんでした。织田信长时代の安土城建设のときには、兵士や作业员の食料を运ぶのに大きな器が用いられました。後になると、戦场に食料を携帯するために兵士には个人用の容器が配られました。当时の人は一人分の食料はいわゆる「面子」に入れて、あるいは、他のアジア诸国でも见られることですが、乾燥させた食料を木の叶に包んだだけで携帯していました。鹿児岛では武士や足軽が、灰汁に浸けた饼米を竹皮に包んで蒸した「あくまき」を戦场に持っていったことについては、前にのべました。
豊臣秀吉の时代は、芸术的なデザイン创造に恵まれた时代でした。その顶点にくるのが茶の汤の発展とそれに伴う「茶弁」です。これは、通常特制の弁当箱(お茶を入れた容器がついているもの、また时には茶事用の料理を入れるためのもの)に入れて供されました。东京国立博物馆と彦根城宝物馆には、桃山时代、江戸时代に富裕な人々が使っていたこれらの美しい容器が展示されています。
江戸时代は、一般市民の自由な旅は许されていませんでしたが、参勤交代制度がありましたので「旅の时代」 とも言えます。この制度では、大名と武士は家族の住んでいる首都江戸と自分の领地との间を定期的に旅しなければなりませんでした。このお阴で日本中を旅人が行き交い、弁当箱デザインの创造が盛んになり、弁当箱はより优雅で装饰的なものとなりました。
このような洗练された涂りの弁当箱の発展に贡献したもう一つの要因は、歌舞伎、狂言、文楽などの演剧の振兴です。こうした演剧は非常に长い时间をかけて行われますので、人々は幕间に食べる食事を持って行きました。现在でも歌舞伎では食事が出されますし、相扑でも観客は自分の弁当を持って行くか、そこで购入して取组みの合间に食べます。何しろ、相扑は朝始まって终わるのは午後六时ですから。秦恒平という作家によれば、「幕の内」という言叶は、「人々が演剧の幕间に食事をとるようになった」。以前に、上级武士が戦场では「阵幕の中で」食事していたことからきている、ということでしかし、歌舞伎や狂言でも幕间に食べる弁当は「幕の内弁当」と呼ばれました。幕が下ろされている间に食べる弁当という意味です。前に述べたように、この言叶の本来の意味は「戦场の阵幕で食べるごま塩のおにぎり」であったように思えますが、これが後に「剧场で幕间に食べる弁当」へと発展していきました。
明治以降は、米国や欧州诸国にみられるような弁当箱も好まれました。现在でも日本では、バスケットに入れた弁当を「バスケット・ランチ」と呼んでいます。子供たちはお祭りや、远足、运动会などの特别な日を待ちこがれました。このような日には弁当に卵焼きを入れてもらえたからです(卵は高価で普段は口にできない食物でした)。弁当のご饭には大麦をまぜてあることが多く、海苔をのせてあることもありましたが、おかずは梅干しだけ、というのが普通でした。
昔から「弁当」という言叶には「面桶」という言叶にはない楽しい意味あいが含まれていました。「弁当」は剧场、楽しい外出、旅行などに持っていく食べ物を入れる器で、「面桶」は、たいてい农夫、职人などが畑や职场に持っていく弁当箱を指していたからです。
「弁当」という言叶は今でも残っていますが、「面桶」という言叶はもう使われていません。上流阶级の言叶であったものが、徐々に社会の全阶层に広まっていったものと思われます。しかしこの事実から、日々の生活のあらゆる面で「游びの雰囲気」を追い求める日本人の国民性について考えさせられます。この「游び感覚」を好む倾向は弁当箱の様式、形、色だけでなく、「弁当用品」(弁当风吕敷や袋、おしぼり入れ、调味料入れ、取り分け皿、使い舍て用品、ポータブルの调味料、小さなフォーク、お箸、魔法瓶等々)にもみられます。
伝统的な赘沢な箱の好きな人たちや、それを懐かしむ人たちには、本物の漆涂りあるいはイミテーションの涂りの箱で、盖の上に花や植物を描いて季节感をだしたものもあります。また子供や学生の场合には、外国语、特に英语をふんだんに使ったものや、可爱い动物、植物、テレビの人気キャラクターなどを描いたものもあります。メーカーやデパートは次々に新しい面白いデザインのものをだしてこの倾向を助长していますし、また日本人が「初物」「変化」「季节感」といったことを好む性质をねらって、「春の弁当箱フェア」「幼稚园児の弁当箱特别セール」「花见用弁当箱の特别セール」といった催し物も行っています。
前に述べたように、日本では数多くの雑志が、学童の毎日の弁当から正月の特别なものまで、种々の用途、催しのための美しくて栄养のあるおいしい惣菜料理の作り方をのせています。そのどれかの弁当特集を见れば、今の弁当の倾向と様式を知ることができます。そこでまず手始めに、手近に买える雑志で弁当を特集しているものがどれくらいあるか调べてみました。
私は『主妇と生活』の一九九二年一〇月号をここに持ってきています。もう今では绝版でしょうが、そのタイトルは「素敌な料理」というものです。日本保育所の研究をしたLois Peakによれば、ある保育所で、园长が母亲や先生たちを前に弁当について话をしたそうです。その目的は「弁当が子供たちの教育、躾けにとってどんなに大事か」を母亲たちに伝えることでした。毎朝手间暇かけて良い弁当を作ることで、母亲は自分の爱情を子供たちに伝えます。园长は次のように话しました。「母亲が毎朝少し早く起きて子供のために何かしてやれるのは学校にあがるまでのことです。学校に入ってしまえば给食です。昨夜の残り物とか大人の弁当の余りなどでなく、子供のために特别に作る、ということも大事です。家庭では母亲は、父亲や大きな子供の好きなものを作ります。お弁当はその子のためだけに何か特别なことをしてやれる、そして食欲をだせるようにしてやるチャンスなのです。私たちは母亲たちに三、四种の料理とご饭、果物をいれた小さな弁当を作ってもらいました。味つけは子供好みでなければなりませんが、たいていの子供たちはどんな料理でも甘い味つけを好みます。また、栄养価が高くて子供の好きな料理で、色どりがきれいで见た目も可爱くなければなりません。昼食时に子供が弁当箱の盖をとったときに、母亲の爱情が箱から飞び出してくるようなものでなければなりません。こどもたちが『これはボクのお母さんがボクのためだけに作ってくれたもの』と思うようなものでなければなりません」。 したがって、弁当は学校活动や子供たちの生活と密接に関连しています。しかしここで、子供だけでなく母亲の社会化という点でも、弁当が大きな役割を果たしていることを指摘しておく必要があるでしょう。
子供たちが幼稚园や保育所に入ったときから、母亲たちは种々の活动に参加することを求められます。例えば、子供をきちんとした身なりで时间におくれないように登校、登园させること、学校や园と家庭の円滑なつなぎ手となること、给食のない场合には(小学校はどこでも给食があります)毎日おいしくて栄养のある弁当を作って持参させること、などです。
このように学校弁当は就学前から始まりますが、これには重要な象徴的な意味があります。母亲たちは急いで弁当の作り方を书いた雑志や本を买い、他の母亲と意见交换をし、小学校に入ってからも、教えて欲しいという母亲があれば教えてあげます。
弁当は母亲と子供の绊を、さらに家庭と学校の绊をも深めます。弁当を作りながら母亲は子供のことを思い、食べやすくてきれいで、栄养があっておいしい弁当を作ります。八〇年代の终わりに私が日本に住んでいたとき、人気の高い子供向けテレビ番组の歌に次のようなのがありました。「これくらいのお弁当箱に・・・」という歌で始まり、弁当によく使われる料理とその作り方を说明します。幼稚园児はほとんどこのテレビ番组を见ていましたし、母亲たちはまだ幼稚园にも行かない幼児にもこれを见せていました。若い母亲たちは「弁当作りの仪式」を通じて社会に出ていき、「若い母亲のグループ」のメンバーとして自分のアイデンティティを获得します。そして子供たちもまた、クラスメートたちと弁当を一绪に食べることによって、外の世界の真のメンバーとなります。したがって弁当は、家と外の境界を示す一つの道具ともなるのです。
子供たちが喜び、その食欲を増すような可爱い弁当を作るよう、学校から指导されているのです。 日本では多分いまこのような状况でしょう。しかし笔者が面接した日本人インフォーマント(被调査者)で年辈の人たちは、「私たちの母亲は食べようが食べまいがあまり心配しませんでした。それよりも十分な食物を得られるかどうかのほうが気がかりでした。时には兄弟で争ったり、弟や妹が特别な料理を贳っているのを见ると不平を言ったりしました」と言っています。当时は母亲の作った弁当は美しくもなく、ただ米、麦、豆、さつまいもなどを混ぜたもので、特别な时だけ鱼や卵がつきました。日本でも地域や家庭によって大きく异なっていたでしょうが、国立学校の中ではおつゆを出すところもありました。その理由は多分、どの子も弁当を持ってこられるとは限らなかったからでしょう。おつゆの给食は、戦後にもみられました。五〇年代にはおつゆの代わりに戦後アメリカから日本に送られてきた粉ミルクになりましたが、これは大変嫌われました。东京出身のある小学校の先生が笔者に语ってくれたところによれば、终戦直後から五〇年代半ばまで、弁当を持ってこられない生徒のために、ほとんど毎日三~四个の弁当を用意しなければならなかったそうです。生徒数三〇人のクラスで昼食时に食べる物のない生徒が七~八人ほどいて、先生たちはそのような生徒たちに食物を与えていたそうです。
外観の美しさも重要な地位を占めていますが、ダイエットも大事で、多くの弁当雑志は选択が正しく行えるよう、カロリー数を示しています。今日の弁当ブームで弁当箱の创造性も盛んになってきています。デパートは、可爱い、お洒落な、変わった、そしてオリジナルな、种々の弁当箱に大きな売场をとって展示しています。その多くは少女むけです。女の子の鞄にうまくおさまる二段になった长く细い箱が今大流行です。たいていは电子レンジで加热できるもので、色も饰りもソフトで上品です。一番新しいのは真空タイプのもので盖が二つついています。下の盖にはボタンがついていて、それを押すと自动的に真空パックに変わり、冷冻しなくとも食物の长期保存(二四时间)が可能になり、风味も味も保てます。この手の弁当箱については、後で特にOLとの関连で考えてみます。
一九九四年三月东京で行ったアンケート调査によれば、都心のビルで働くOLの七五%が自分で弁当を作り、それを自分のデスクで食べているそうです(『朝日新闻』、一九九七年七月二四日)。调査対象となった女性たちの年齢层は二五~三七歳です。たいていの人が「弁当ならバランスのとれた健康な食事ができる」と言っています。また、时间やお金も节约できます。昼食时には安いレストランは长い行列になることもありますから。多くの人がお金の点を强调しています。自分で弁当を作れば月に二万円(二〇〇米ドル)ほどの节约になりますが、これは月あたりの収入が一五万円(一五〇〇米ドル)のOLにとってはちょっとした金额で、衣类、レジャー、旅行、化粧品、美容院などにあてることのできる大事なお金です。ダイエットも弁当持参の重要な理由の一つです。现在贩売されている弁当箱の中で主に若い女性が买い求めるのは、中に仕切がついていて一定の量のご饭しかはいらない、したがって体型を保つのによい弁当箱です。三角のおむすびが二つしかはいらない三角形の容器も流行っています。
大きなデパートの弁当箱売场に行くと、沢山の弁当箱を见ることができます。弁当箱売场は普通、子供用、大人 用、それに有名なアニメや漫画のキャラクターを描いた「キャラクターもの」の三つのセクションに分けられています。プラスチック制や木制(柳、杉、桧制のものさえあります)のもの、涂りのもの、柳の小枝などを编んだ笼、アルミ制のもの(一时はこれが流行っていました)、最近では电子レンジで使えるもの、真空のもの、カレーやビーフシチューなど暖かい食物を入れるもの、等々です。新しい弁当箱を买う时期、新しいデザインのものが展示されるのは春、三~四月です。この时期には学校の新学期が始まりますし、会社には新入社员が入ります。そして新入生や新入社员は、新しい学生生活、社会人としてのスタートに必要なものを买い求めます。
新学期のお祝いとして、学校や职场でママの味を楽しめる弁当箱をもらいます。
入学は子供の通过仪礼の一つです。子供たちは、亲密で甘えられる家族とは异なる新しいグループの一员となり、その中で全く新しい役割を果たすことを求められます。これまでより责任が重くなり、このような状况は将来のために非常に有意义なのだと教えられます。これは、子供たちがもっと高いステータスに到达したこと、大人の段阶に一歩近づいたことの印なのです。 日本の学校は子供たちの私生活にも强く干渉します。学校の校则の中に、衣类、校外での社会生活、食习惯に関するものがどれくらいあるかを调べなければなりません。学校の职员は低学年の生徒の弁当箱の中を覗いて、母亲の世话が届いているかどうかを知りたがります。そして定期的に行われるPTAの集会で、もっと変化に富んだ食品を、もっとよい惣菜を、子供が肥らないよう量を减らして、などと强调します。あるPTAの会合で、そこの校长が「この顷のお弁当はお袋の味になりましたね」と言って、母亲の配虑を求める话をしました。ここで校长は「ふくろ」の二つの意味、「袋」と「母亲」をかけています。すなわち、子供の昼食に冷冻して袋につめた既制品を使っていることを皮肉って「今顷のお弁当は袋诘めの味がふえている」と言っているのです。「お袋の味」というのは普通、母亲の手料理の味のことを指します。 弁当の正しい作り方と、それをきちんと子供が食べるようにする躾けは、幼稚园以来の母亲たちの头痛のたねです。母亲が作った弁当を食べることは子供たちの甘えの绊を强めます。ここでも母亲たちは手の込んだ魅力的で色彩豊かな可爱らしい弁当を作るよう求められているのです。このことから多くのことが引き出せます。子供たちが食物のことで不満を抱き、母亲たちが「どうしてもっと沢山の食物を、あるいは子供たちの望む食物を与えられないのか」を说明しなければならなかったのは、さほど远い昔のことではなかったのに、今では事情はまるきり反対です。笔者のインフォーマントは次のように话してくれました。「昔は母亲が作ったお弁当を食べさせてほしいと愿ったんだが、今は、私たちが作ったお弁当を子供が食べてくれるように一所悬命に考えるんだよね。」母亲の作ったご驰走、お菓子、スナック、果物、饮み物などを持ってくることもありました。妻に自分の仕事の大変さをみせ、自分たちの大黒柱としての役割を家族に再认识させる一つの方法でした。つい先顷までは、たいていの病院では、患者の弁当は家族が运んでくることになっていました。日本の病院は小さすぎて、特に长期入院者の场合など、给食のサービスにまでは手がまわらなかったからです。友情や爱情の证として患者に弁当をもってくるケースを数多く见かけました。もちろん持ってくるのはいつも女性で、亲戚や友人の说明を闻くと必ず「どうぞ召し上がって下さい。ほんの気持ちだけですから。」「特别」と感じてもらうためにこのご驰走を作ったのです」これは、弁当が社交的な用途にも用いられるということだけでなく、他の国同様日本でも、毎日の生活で食事に関することは、その必要がないときでさえも、女性が行うべきだと考えられていることを示しています。 したがって、弁当は単に食物を入れてあるものというだけでなく、多くのシンボルやメッセージをも含んでおり、社会的な関系を作りだしそれを强める道具ともなります。中身だけでなく容器についても同様です。家族、学生、职场仲间のグループが远足や运动会、あるいは花见や红叶狩りのような伝统的な集まりに行くときは、弁当の中身を交换するのが习惯になっています。花见や红叶狩りのときは容器は数人分のものを使い、弁当を食べることが行楽の主な楽しみとなります(『京都新闻』二〇〇一年三月二四日、一一ページ「お弁当箱を开けてみれば・・・」参照)。これは、同じ容器から同じ食物を食べることによってグループの绊を强めるという独特の雰囲気に基づくもので、他の国とさして违いません。
今日、弁当は昔ながらのご饭、塩鲑、渍け物、梅干し/梅干しを入れたおむすび/白いご饭のおむすびに醤油につけた海苔をのせたもの/明治时代以来庶民の日常の食事であった鲑ご饭、などとは大きく违ってきています。弁当箱は多様性に富んだ洒落たものとなり、东洋・西洋のあらゆるご驰走を入れるようになりました。また季节ごとに、外観の面からも中に入れる惣菜の面からも、その季节特有の弁当があります。色、容器への盛りつけ、种々の料理の组合わせと容器の関系、これらは正月に重箱で供されるお节料理と同じくらい非常に重要です。まるでそれぞれの料理に「収まる场所」があるかのように、中身の料理は箱の中のそれぞれの场所に配置されます。箱の内部の仕切は取り外しや移动が可能で、各种の食物が形と色もバランスよく非常に美しく组み合わされています(これらは弁当に関する本や雑志记事をみれば必ず出ています。雑志のリストおよび土山ツネオ・山本胜共著の本、一九九〇を参照)。昔は食料が乏しく、食事に変化をつけることはむずかしかったでしょう。しかしすでに平安时代には、上流阶级の人は前にのべた重箱を、行楽やお客を招いたときの食事や调理した料理の保存などに使っていました。昔も今も重箱は漆涂りで、ふつう内侧と外侧は违う色に涂り分けられています。これは现在では、主に家庭でお正月や特别に行事で多くの人が料理を分け合う时に使用されています。また、高级料亭でも、料理を入れる特别に高価な容器として使われています。
种に分けるのが一般的ですが、これは神道の価値観、自然観、人工的な景観を反映しています。弁当箱の中身の盛りつけは、通常の日本料理の盛りつけ方とほとんど同じです。しかしここでは日本的な「间」の感覚は忘れ去られます。これは机能上の理由によるもので、箱の场合は縁までいっぱい诘めます。美的见地からは、箱と空间、空间と料理のバランスがとれていなければなりません。空间の量は日本でも地方によって异なり、北部では沢山诘めます。コントラストへの意识は强く、食物によって切り方も违います。幅の狭い长方形の人参は半円形のかまぼこの隣におきます。食物で切ったものや块状のものの数は、三、五、七といった奇数が好まれます。これは古代中国からきたものと思われます。中国では昔、偶数はyin(凶)、奇数はyang(吉)で、食物は奇数のほうが縁起がよいと考えられていました(土山・山本、一九八五)。
この论文で用いている「箱」という言叶は、広く「容器」を指します。日本では、箱には様々な形、様式、材料のものがあります。笔者自身の调査でも、中身で箱の构造が决まり、箱の形、色、大きさはそれを使う人の性、年齢、仕事によって変わることが判明しました。笔者の体験によれば、ピンクや赤は女性だけ、青とマリンブルーは主に男性が用いていました。黄色と绿は、男性の方が多いとはいえ、今では男女の别なく用いられていますし、テレビアニメの有名なキャラクターの场合もそうです。小さな女の子の场合、女の子用のアニメだけでなく男の子のアニメのキャラクターのついた弁当箱もよく使われていますが、その反対のケース、小さな男の子が女の子用のアニメのキャラクターのついた弁当箱を使う例はあまり多くはありません。
特に忘れられないのは娘の学校の运动会と大学の友人や隣人たちとの花见です。数日前からみんな弁当に持っていく料理のことで梦中でした。子供たちはひっきりなしに母亲に寻ねたり、时には何々にしたら、などと提案したりしていました。皆と分け合って食べる弁当には二つの重要な点があります。可爱らしいこと、および/あるいは美しく诘め合わせること、それに谁もが好む料理を诘めること、です。そして花见の场所とか景色のいい场所に来ると、花や景色を见るよりも、弁当を広げて食べることに気を夺われているように见えました。他の人が手作りの弁当を広げると、それを食べる前に「おいしそう」「きれい」といったような言叶がかけられます。このような会食では、社交的な绊を强める一つの方法でもある。このような机会は酒を酌み交わすことが有意义な时でもあり、このような会食を指す「酒盛り」という言叶さえあります。そして男も女も一绪に集まり、酒を饮み料理を食べることでグループや共同体の一员としての绊を强めます。今日では「花见」や「运动会」がそれにあたります。
弁当の中身はその行事と密接に関连していますが、容器の重要性も无视できません。そのような集まりや行事が自然と関连するもの、季节的なものである场合、弁当は色、景色、季节感を反映していなければなりません。季节感がよく出るよう、容器は中身とよくマッチしたものでなくてはなりません。春や秋の自然を楽しむ会、お盆、お正月のお节料理などがそうです。日本料理では、料理を入れる弁当箱で、美しさ、质、盛りつけなどの効果が强められます。家庭では、どのような场合の食事か、どのような料理を入れるのか、によって违った食器を用いますが、弁当箱の场合も全く同じです。
日本では昔から、上流社会は洗练された高価な漆涂りの弁当箱を用い、一方、労働者、渔夫、工员、学生などは、编笼や木制(最近ではアルミやプラスチック)の简素な物を使ってきました。ここで、日本では人前で食事することはあまり良いたしなみとは思われていなかった、ということに注意してください。贵族や武士たちは、家の外で食事する必要のあるときは自分の食事を持っていくのが常でした。これは多分、他人に食物を手渡すとか、他人の作った食事を食べることから生じる「浄」「不浄」の感覚と関系があったのでしょう。
実际、弁当を大量に作るというようなことは、一五世纪になるまで见られませんでした。これが徐々に完成されたのは江戸时代後期になってからです。食材の种类が増え、食物の保存法が向上して、惣菜のメニューが増えました。茶の汤は日本食文化の発达に重要な役割を果たしました(『日本の近世』、熊仓功夫、一九九三;アエリア、一九九五年九月、一九九六年五月、一九九六年九月)。
弁当箱の种类が豊富になり洗练されていくのには、戦争と平和のどちらもが大きな役割を果たしました。その影响は、これから见るように、非常に异质のものでした。
室町时代、桃山时代は、江戸时代同様、弁当の歴史に大きな役割を果たしています。戦时には兵士たちは、安全で持ちやすい方法で自分用の食料を携帯しなければなりませんでした。织田信长时代の安土城建设のときには、兵士や作业员の食料を运ぶのに大きな器が用いられました。後になると、戦场に食料を携帯するために兵士には个人用の容器が配られました。当时の人は一人分の食料はいわゆる「面子」に入れて、あるいは、他のアジア诸国でも见られることですが、乾燥させた食料を木の叶に包んだだけで携帯していました。鹿児岛では武士や足軽が、灰汁に浸けた饼米を竹皮に包んで蒸した「あくまき」を戦场に持っていったことについては、前にのべました。
豊臣秀吉の时代は、芸术的なデザイン创造に恵まれた时代でした。その顶点にくるのが茶の汤の発展とそれに伴う「茶弁」です。これは、通常特制の弁当箱(お茶を入れた容器がついているもの、また时には茶事用の料理を入れるためのもの)に入れて供されました。东京国立博物馆と彦根城宝物馆には、桃山时代、江戸时代に富裕な人々が使っていたこれらの美しい容器が展示されています。
江戸时代は、一般市民の自由な旅は许されていませんでしたが、参勤交代制度がありましたので「旅の时代」 とも言えます。この制度では、大名と武士は家族の住んでいる首都江戸と自分の领地との间を定期的に旅しなければなりませんでした。このお阴で日本中を旅人が行き交い、弁当箱デザインの创造が盛んになり、弁当箱はより优雅で装饰的なものとなりました。
このような洗练された涂りの弁当箱の発展に贡献したもう一つの要因は、歌舞伎、狂言、文楽などの演剧の振兴です。こうした演剧は非常に长い时间をかけて行われますので、人々は幕间に食べる食事を持って行きました。现在でも歌舞伎では食事が出されますし、相扑でも観客は自分の弁当を持って行くか、そこで购入して取组みの合间に食べます。何しろ、相扑は朝始まって终わるのは午後六时ですから。秦恒平という作家によれば、「幕の内」という言叶は、「人々が演剧の幕间に食事をとるようになった」。以前に、上级武士が戦场では「阵幕の中で」食事していたことからきている、ということでしかし、歌舞伎や狂言でも幕间に食べる弁当は「幕の内弁当」と呼ばれました。幕が下ろされている间に食べる弁当という意味です。前に述べたように、この言叶の本来の意味は「戦场の阵幕で食べるごま塩のおにぎり」であったように思えますが、これが後に「剧场で幕间に食べる弁当」へと発展していきました。
明治以降は、米国や欧州诸国にみられるような弁当箱も好まれました。现在でも日本では、バスケットに入れた弁当を「バスケット・ランチ」と呼んでいます。子供たちはお祭りや、远足、运动会などの特别な日を待ちこがれました。このような日には弁当に卵焼きを入れてもらえたからです(卵は高価で普段は口にできない食物でした)。弁当のご饭には大麦をまぜてあることが多く、海苔をのせてあることもありましたが、おかずは梅干しだけ、というのが普通でした。
昔から「弁当」という言叶には「面桶」という言叶にはない楽しい意味あいが含まれていました。「弁当」は剧场、楽しい外出、旅行などに持っていく食べ物を入れる器で、「面桶」は、たいてい农夫、职人などが畑や职场に持っていく弁当箱を指していたからです。
「弁当」という言叶は今でも残っていますが、「面桶」という言叶はもう使われていません。上流阶级の言叶であったものが、徐々に社会の全阶层に広まっていったものと思われます。しかしこの事実から、日々の生活のあらゆる面で「游びの雰囲気」を追い求める日本人の国民性について考えさせられます。この「游び感覚」を好む倾向は弁当箱の様式、形、色だけでなく、「弁当用品」(弁当风吕敷や袋、おしぼり入れ、调味料入れ、取り分け皿、使い舍て用品、ポータブルの调味料、小さなフォーク、お箸、魔法瓶等々)にもみられます。
伝统的な赘沢な箱の好きな人たちや、それを懐かしむ人たちには、本物の漆涂りあるいはイミテーションの涂りの箱で、盖の上に花や植物を描いて季节感をだしたものもあります。また子供や学生の场合には、外国语、特に英语をふんだんに使ったものや、可爱い动物、植物、テレビの人気キャラクターなどを描いたものもあります。メーカーやデパートは次々に新しい面白いデザインのものをだしてこの倾向を助长していますし、また日本人が「初物」「変化」「季节感」といったことを好む性质をねらって、「春の弁当箱フェア」「幼稚园児の弁当箱特别セール」「花见用弁当箱の特别セール」といった催し物も行っています。
前に述べたように、日本では数多くの雑志が、学童の毎日の弁当から正月の特别なものまで、种々の用途、催しのための美しくて栄养のあるおいしい惣菜料理の作り方をのせています。そのどれかの弁当特集を见れば、今の弁当の倾向と様式を知ることができます。そこでまず手始めに、手近に买える雑志で弁当を特集しているものがどれくらいあるか调べてみました。
私は『主妇と生活』の一九九二年一〇月号をここに持ってきています。もう今では绝版でしょうが、そのタイトルは「素敌な料理」というものです。日本保育所の研究をしたLois Peakによれば、ある保育所で、园长が母亲や先生たちを前に弁当について话をしたそうです。その目的は「弁当が子供たちの教育、躾けにとってどんなに大事か」を母亲たちに伝えることでした。毎朝手间暇かけて良い弁当を作ることで、母亲は自分の爱情を子供たちに伝えます。园长は次のように话しました。「母亲が毎朝少し早く起きて子供のために何かしてやれるのは学校にあがるまでのことです。学校に入ってしまえば给食です。昨夜の残り物とか大人の弁当の余りなどでなく、子供のために特别に作る、ということも大事です。家庭では母亲は、父亲や大きな子供の好きなものを作ります。お弁当はその子のためだけに何か特别なことをしてやれる、そして食欲をだせるようにしてやるチャンスなのです。私たちは母亲たちに三、四种の料理とご饭、果物をいれた小さな弁当を作ってもらいました。味つけは子供好みでなければなりませんが、たいていの子供たちはどんな料理でも甘い味つけを好みます。また、栄养価が高くて子供の好きな料理で、色どりがきれいで见た目も可爱くなければなりません。昼食时に子供が弁当箱の盖をとったときに、母亲の爱情が箱から飞び出してくるようなものでなければなりません。こどもたちが『これはボクのお母さんがボクのためだけに作ってくれたもの』と思うようなものでなければなりません」。 したがって、弁当は学校活动や子供たちの生活と密接に関连しています。しかしここで、子供だけでなく母亲の社会化という点でも、弁当が大きな役割を果たしていることを指摘しておく必要があるでしょう。
子供たちが幼稚园や保育所に入ったときから、母亲たちは种々の活动に参加することを求められます。例えば、子供をきちんとした身なりで时间におくれないように登校、登园させること、学校や园と家庭の円滑なつなぎ手となること、给食のない场合には(小学校はどこでも给食があります)毎日おいしくて栄养のある弁当を作って持参させること、などです。
このように学校弁当は就学前から始まりますが、これには重要な象徴的な意味があります。母亲たちは急いで弁当の作り方を书いた雑志や本を买い、他の母亲と意见交换をし、小学校に入ってからも、教えて欲しいという母亲があれば教えてあげます。
弁当は母亲と子供の绊を、さらに家庭と学校の绊をも深めます。弁当を作りながら母亲は子供のことを思い、食べやすくてきれいで、栄养があっておいしい弁当を作ります。八〇年代の终わりに私が日本に住んでいたとき、人気の高い子供向けテレビ番组の歌に次のようなのがありました。「これくらいのお弁当箱に・・・」という歌で始まり、弁当によく使われる料理とその作り方を说明します。幼稚园児はほとんどこのテレビ番组を见ていましたし、母亲たちはまだ幼稚园にも行かない幼児にもこれを见せていました。若い母亲たちは「弁当作りの仪式」を通じて社会に出ていき、「若い母亲のグループ」のメンバーとして自分のアイデンティティを获得します。そして子供たちもまた、クラスメートたちと弁当を一绪に食べることによって、外の世界の真のメンバーとなります。したがって弁当は、家と外の境界を示す一つの道具ともなるのです。
子供たちが喜び、その食欲を増すような可爱い弁当を作るよう、学校から指导されているのです。 日本では多分いまこのような状况でしょう。しかし笔者が面接した日本人インフォーマント(被调査者)で年辈の人たちは、「私たちの母亲は食べようが食べまいがあまり心配しませんでした。それよりも十分な食物を得られるかどうかのほうが気がかりでした。时には兄弟で争ったり、弟や妹が特别な料理を贳っているのを见ると不平を言ったりしました」と言っています。当时は母亲の作った弁当は美しくもなく、ただ米、麦、豆、さつまいもなどを混ぜたもので、特别な时だけ鱼や卵がつきました。日本でも地域や家庭によって大きく异なっていたでしょうが、国立学校の中ではおつゆを出すところもありました。その理由は多分、どの子も弁当を持ってこられるとは限らなかったからでしょう。おつゆの给食は、戦後にもみられました。五〇年代にはおつゆの代わりに戦後アメリカから日本に送られてきた粉ミルクになりましたが、これは大変嫌われました。东京出身のある小学校の先生が笔者に语ってくれたところによれば、终戦直後から五〇年代半ばまで、弁当を持ってこられない生徒のために、ほとんど毎日三~四个の弁当を用意しなければならなかったそうです。生徒数三〇人のクラスで昼食时に食べる物のない生徒が七~八人ほどいて、先生たちはそのような生徒たちに食物を与えていたそうです。
外観の美しさも重要な地位を占めていますが、ダイエットも大事で、多くの弁当雑志は选択が正しく行えるよう、カロリー数を示しています。今日の弁当ブームで弁当箱の创造性も盛んになってきています。デパートは、可爱い、お洒落な、変わった、そしてオリジナルな、种々の弁当箱に大きな売场をとって展示しています。その多くは少女むけです。女の子の鞄にうまくおさまる二段になった长く细い箱が今大流行です。たいていは电子レンジで加热できるもので、色も饰りもソフトで上品です。一番新しいのは真空タイプのもので盖が二つついています。下の盖にはボタンがついていて、それを押すと自动的に真空パックに変わり、冷冻しなくとも食物の长期保存(二四时间)が可能になり、风味も味も保てます。この手の弁当箱については、後で特にOLとの関连で考えてみます。
一九九四年三月东京で行ったアンケート调査によれば、都心のビルで働くOLの七五%が自分で弁当を作り、それを自分のデスクで食べているそうです(『朝日新闻』、一九九七年七月二四日)。调査対象となった女性たちの年齢层は二五~三七歳です。たいていの人が「弁当ならバランスのとれた健康な食事ができる」と言っています。また、时间やお金も节约できます。昼食时には安いレストランは长い行列になることもありますから。多くの人がお金の点を强调しています。自分で弁当を作れば月に二万円(二〇〇米ドル)ほどの节约になりますが、これは月あたりの収入が一五万円(一五〇〇米ドル)のOLにとってはちょっとした金额で、衣类、レジャー、旅行、化粧品、美容院などにあてることのできる大事なお金です。ダイエットも弁当持参の重要な理由の一つです。现在贩売されている弁当箱の中で主に若い女性が买い求めるのは、中に仕切がついていて一定の量のご饭しかはいらない、したがって体型を保つのによい弁当箱です。三角のおむすびが二つしかはいらない三角形の容器も流行っています。
大きなデパートの弁当箱売场に行くと、沢山の弁当箱を见ることができます。弁当箱売场は普通、子供用、大人 用、それに有名なアニメや漫画のキャラクターを描いた「キャラクターもの」の三つのセクションに分けられています。プラスチック制や木制(柳、杉、桧制のものさえあります)のもの、涂りのもの、柳の小枝などを编んだ笼、アルミ制のもの(一时はこれが流行っていました)、最近では电子レンジで使えるもの、真空のもの、カレーやビーフシチューなど暖かい食物を入れるもの、等々です。新しい弁当箱を买う时期、新しいデザインのものが展示されるのは春、三~四月です。この时期には学校の新学期が始まりますし、会社には新入社员が入ります。そして新入生や新入社员は、新しい学生生活、社会人としてのスタートに必要なものを买い求めます。
新学期のお祝いとして、学校や职场でママの味を楽しめる弁当箱をもらいます。
入学は子供の通过仪礼の一つです。子供たちは、亲密で甘えられる家族とは异なる新しいグループの一员となり、その中で全く新しい役割を果たすことを求められます。これまでより责任が重くなり、このような状况は将来のために非常に有意义なのだと教えられます。これは、子供たちがもっと高いステータスに到达したこと、大人の段阶に一歩近づいたことの印なのです。 日本の学校は子供たちの私生活にも强く干渉します。学校の校则の中に、衣类、校外での社会生活、食习惯に関するものがどれくらいあるかを调べなければなりません。学校の职员は低学年の生徒の弁当箱の中を覗いて、母亲の世话が届いているかどうかを知りたがります。そして定期的に行われるPTAの集会で、もっと変化に富んだ食品を、もっとよい惣菜を、子供が肥らないよう量を减らして、などと强调します。あるPTAの会合で、そこの校长が「この顷のお弁当はお袋の味になりましたね」と言って、母亲の配虑を求める话をしました。ここで校长は「ふくろ」の二つの意味、「袋」と「母亲」をかけています。すなわち、子供の昼食に冷冻して袋につめた既制品を使っていることを皮肉って「今顷のお弁当は袋诘めの味がふえている」と言っているのです。「お袋の味」というのは普通、母亲の手料理の味のことを指します。 弁当の正しい作り方と、それをきちんと子供が食べるようにする躾けは、幼稚园以来の母亲たちの头痛のたねです。母亲が作った弁当を食べることは子供たちの甘えの绊を强めます。ここでも母亲たちは手の込んだ魅力的で色彩豊かな可爱らしい弁当を作るよう求められているのです。このことから多くのことが引き出せます。子供たちが食物のことで不満を抱き、母亲たちが「どうしてもっと沢山の食物を、あるいは子供たちの望む食物を与えられないのか」を说明しなければならなかったのは、さほど远い昔のことではなかったのに、今では事情はまるきり反対です。笔者のインフォーマントは次のように话してくれました。「昔は母亲が作ったお弁当を食べさせてほしいと愿ったんだが、今は、私たちが作ったお弁当を子供が食べてくれるように一所悬命に考えるんだよね。」母亲の作ったご驰走、お菓子、スナック、果物、饮み物などを持ってくることもありました。妻に自分の仕事の大変さをみせ、自分たちの大黒柱としての役割を家族に再认识させる一つの方法でした。つい先顷までは、たいていの病院では、患者の弁当は家族が运んでくることになっていました。日本の病院は小さすぎて、特に长期入院者の场合など、给食のサービスにまでは手がまわらなかったからです。友情や爱情の证として患者に弁当をもってくるケースを数多く见かけました。もちろん持ってくるのはいつも女性で、亲戚や友人の说明を闻くと必ず「どうぞ召し上がって下さい。ほんの気持ちだけですから。」「特别」と感じてもらうためにこのご驰走を作ったのです」これは、弁当が社交的な用途にも用いられるということだけでなく、他の国同様日本でも、毎日の生活で食事に関することは、その必要がないときでさえも、女性が行うべきだと考えられていることを示しています。 したがって、弁当は単に食物を入れてあるものというだけでなく、多くのシンボルやメッセージをも含んでおり、社会的な関系を作りだしそれを强める道具ともなります。中身だけでなく容器についても同様です。家族、学生、职场仲间のグループが远足や运动会、あるいは花见や红叶狩りのような伝统的な集まりに行くときは、弁当の中身を交换するのが习惯になっています。花见や红叶狩りのときは容器は数人分のものを使い、弁当を食べることが行楽の主な楽しみとなります(『京都新闻』二〇〇一年三月二四日、一一ページ「お弁当箱を开けてみれば・・・」参照)。これは、同じ容器から同じ食物を食べることによってグループの绊を强めるという独特の雰囲気に基づくもので、他の国とさして违いません。
今日、弁当は昔ながらのご饭、塩鲑、渍け物、梅干し/梅干しを入れたおむすび/白いご饭のおむすびに醤油につけた海苔をのせたもの/明治时代以来庶民の日常の食事であった鲑ご饭、などとは大きく违ってきています。弁当箱は多様性に富んだ洒落たものとなり、东洋・西洋のあらゆるご驰走を入れるようになりました。また季节ごとに、外観の面からも中に入れる惣菜の面からも、その季节特有の弁当があります。色、容器への盛りつけ、种々の料理の组合わせと容器の関系、これらは正月に重箱で供されるお节料理と同じくらい非常に重要です。まるでそれぞれの料理に「収まる场所」があるかのように、中身の料理は箱の中のそれぞれの场所に配置されます。箱の内部の仕切は取り外しや移动が可能で、各种の食物が形と色もバランスよく非常に美しく组み合わされています(これらは弁当に関する本や雑志记事をみれば必ず出ています。雑志のリストおよび土山ツネオ・山本胜共著の本、一九九〇を参照)。昔は食料が乏しく、食事に変化をつけることはむずかしかったでしょう。しかしすでに平安时代には、上流阶级の人は前にのべた重箱を、行楽やお客を招いたときの食事や调理した料理の保存などに使っていました。昔も今も重箱は漆涂りで、ふつう内侧と外侧は违う色に涂り分けられています。これは现在では、主に家庭でお正月や特别に行事で多くの人が料理を分け合う时に使用されています。また、高级料亭でも、料理を入れる特别に高価な容器として使われています。
种に分けるのが一般的ですが、これは神道の価値観、自然観、人工的な景観を反映しています。弁当箱の中身の盛りつけは、通常の日本料理の盛りつけ方とほとんど同じです。しかしここでは日本的な「间」の感覚は忘れ去られます。これは机能上の理由によるもので、箱の场合は縁までいっぱい诘めます。美的见地からは、箱と空间、空间と料理のバランスがとれていなければなりません。空间の量は日本でも地方によって异なり、北部では沢山诘めます。コントラストへの意识は强く、食物によって切り方も违います。幅の狭い长方形の人参は半円形のかまぼこの隣におきます。食物で切ったものや块状のものの数は、三、五、七といった奇数が好まれます。これは古代中国からきたものと思われます。中国では昔、偶数はyin(凶)、奇数はyang(吉)で、食物は奇数のほうが縁起がよいと考えられていました(土山・山本、一九八五)。
この论文で用いている「箱」という言叶は、広く「容器」を指します。日本では、箱には様々な形、様式、材料のものがあります。笔者自身の调査でも、中身で箱の构造が决まり、箱の形、色、大きさはそれを使う人の性、年齢、仕事によって変わることが判明しました。笔者の体験によれば、ピンクや赤は女性だけ、青とマリンブルーは主に男性が用いていました。黄色と绿は、男性の方が多いとはいえ、今では男女の别なく用いられていますし、テレビアニメの有名なキャラクターの场合もそうです。小さな女の子の场合、女の子用のアニメだけでなく男の子のアニメのキャラクターのついた弁当箱もよく使われていますが、その反対のケース、小さな男の子が女の子用のアニメのキャラクターのついた弁当箱を使う例はあまり多くはありません。
特に忘れられないのは娘の学校の运动会と大学の友人や隣人たちとの花见です。数日前からみんな弁当に持っていく料理のことで梦中でした。子供たちはひっきりなしに母亲に寻ねたり、时には何々にしたら、などと提案したりしていました。皆と分け合って食べる弁当には二つの重要な点があります。可爱らしいこと、および/あるいは美しく诘め合わせること、それに谁もが好む料理を诘めること、です。そして花见の场所とか景色のいい场所に来ると、花や景色を见るよりも、弁当を広げて食べることに気を夺われているように见えました。他の人が手作りの弁当を広げると、それを食べる前に「おいしそう」「きれい」といったような言叶がかけられます。このような会食では、社交的な绊を强める一つの方法でもある。このような机会は酒を酌み交わすことが有意义な时でもあり、このような会食を指す「酒盛り」という言叶さえあります。そして男も女も一绪に集まり、酒を饮み料理を食べることでグループや共同体の一员としての绊を强めます。今日では「花见」や「运动会」がそれにあたります。
弁当の中身はその行事と密接に関连していますが、容器の重要性も无视できません。そのような集まりや行事が自然と関连するもの、季节的なものである场合、弁当は色、景色、季节感を反映していなければなりません。季节感がよく出るよう、容器は中身とよくマッチしたものでなくてはなりません。春や秋の自然を楽しむ会、お盆、お正月のお节料理などがそうです。日本料理では、料理を入れる弁当箱で、美しさ、质、盛りつけなどの効果が强められます。家庭では、どのような场合の食事か、どのような料理を入れるのか、によって违った食器を用いますが、弁当箱の场合も全く同じです。
追问
嘿嘿。。谢谢哦。。你有日本井盖文化的资料吗。。
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